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お知らせ

退職された先生方の挨拶をアップしました。

2015年4月1日

  ※五十音順

山大前通りが雅裳苑前通りだった頃

菊地 仁

 三十数年前、こじんまりとした教授会は、現在の第二会議室で行われていました。当時の教授会は、しばしば終了が午後八時を過ぎ、酒を呑まない独身者の私は、晩御飯を食べる場所もなくて閉口しました。コンビニなど想像もできない時代の話です。
 私は、車の免許を持っていません。今でこそTUY通りなど賑やかですが、当時住んでいた吉原からの通勤には、笑えないエピソードが多々あります。不便なバスを見限り、しばしばタクシーで帰宅、おかげで書籍代・食事代とともに、月給は全額ほぼ消えました。
 「雅裳苑」は、取り壊されたオーヌマホテルの前身です。確か、私が山大生だった四十年以上も前すでにホテルになっていたと思います。ただ、「雅裳苑」の名がけっこう最近まで街路灯にその痕跡を残していたことは、気づいておられた方もいるでしょう。
 私は浪人しているので学年はひとつ下ですが、いっしょに退職する鈴木均さんとは、文理学部から人文学部への移行期を学生運動とともに体験した世代です。奇しくも、その人文学部改変の予感のなかで定年を迎えるのはなにか不思議な因縁を感じもいたします。

人文学部法経政策学科を去る日を前に

澤田 裕治

 歴史的都市広島に生まれ育ち、長い東京暮らしを経て、山形県人となった。桜咲く東京を出発した新幹線は、峠を越えて山形に入ると雪景色に包まれた。広島は山も海も近く自然豊かだった。山形でも春夏秋冬、それぞれに美しい山並みを目にし、初めてのスキーを楽しむことができた。
 この間にイギリスを訪ねて実地調査もし、「中世都市ロンドンの裁判と法の法社会史的研究」も進んだ。人文学部への感謝とともに、その知見を以下にまとめておきたい。
 中世都市ロンドンの裁判記録の研究は、国王裁判所とマナー裁判所の研究に比し進んでいない。シェリフ裁判所記録のほぼ完全な喪失と一連の市長裁判所記録の主要部の喪失に因る。第2に、イングランドは『ブラクトン』の時代までに、国王裁判所は他の裁判所を圧倒し、すべての裁判管轄権は世俗的事項では国王に属し、それ以外の世俗の裁判管轄権は国王による「授権」の結果だとする「授権」優位体制を成立させた。12世紀の最後の四半世紀には、西ヨーロッパで初めて、広範な創造的な裁判管轄権をもち、国王裁判官による準官僚制的に実施される全国的な裁判所制度を発展させ、裁判と立法により、国全体に適用できる単一な全国的な慣習法であるコモン・ローを生み出した。第3に、国王裁判所とロンドンの裁判所の間には密接な相互作用があり、特に後者から前者への影響は、この「授権」優位体制の枠組の中で展開された。ロンドンの自律性の特権的な享受は、この体制の枠内での相対的な自律性であった。第4に、コモン・ローは、都市法等の地方慣習に敵対的ではなく、十分に柔軟であった。地方慣習は、本質的にコモン・ローの補充物であって、その代替物ではなかった。最も注目すべきは、ロンドンの裁判所の実際がコモン・ローの革新(占有アサイズ、土地明渡令状、黒死病後の引受訴訟の拡大、英語の訴答、書面訴答、及び訴訟申立手続の拡大等)に対するモデルを提供した可能性である。しかし、借用か独立の革新かを確定するのは難しい。

山形大学30年人文学部20年

鈴木 均

 大雑把に言って,私は山形大学に32年在職し,うち教養部に13年(米沢の教養部分室11年),人文学部19年在職しました。毎年,ほぼ10人のゼミ生を抱えて教育を行ってきました。花見,焼き肉,芋煮会などを行い,よく学び,よく遊びを学生と実践してきて,定年退職を迎えることになりました。
 いま,大学及び学部の改革が進展し,教員組織は学術研究院に一元化され,学部が学生教育の組織になろうとしております。人文学部に所属した期間に,法経政策学科の教務関係のマニュアルを作成し法経政策学科の教務を一人体制で実施することや,学科改組で法経政策のシステムを構築してきましたが、寂しいことにトップダウンが進展しているようです。大学の組織はボトムアップが重要であって,今後このことの構築が期待されます。
 皆さん頑張ってください。それではお世話になりました。

最後のゼミ論文発表会

退職にあたって

立松 潔

 山形大学に赴任して39年間、本当に長い間お世話になりました。最初の20年間は教養部所属、後半の19年間が人文学部所属でしたが、その間多くの学生や教職員の皆さんと出会い、有意義な経験をすることができました。
 特に人文学部時代に思い出深いのは、就職対策委員(現在の進路指導委員)の経験です。ちょうど連続金融破綻(1997年11月)にぶつかり、就職難が深刻化する大変な時代でした。しかし、そういう時に企業訪問や学生諸君の相談を行うことで就職支援の大切さを知り、多くを学ぶことができたと思っています。
 またどういうわけか、赴任以来教養教育(基盤教育)の改善・改革に関する委員をする期間が長く、その関係で大学教育関係の学会や学内外の研修会に数多く参加させてもらいました。実は山形大学に赴任した当時は授業がなかなかうまくいかず、内容もぼろぼろでした。しかし、委員の仕事から自分の授業改善について気付かされることも多く、とても助かりました。私の授業が少しはまともになったとすればそのおかげに違いありません。
 そんな有意義な経験をさせていただいた山形大学と、いろんな局面で支えて下さった教職員の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。また、ゼミやクラス担任、授業などで知り合った多くの学生諸君とは本当に楽しく充実した時間を過ごすことができました。ありがとうございます!

日本経済論ゼミ最終回の記念撮影

山形大を去るにあたって

中村 唯史

 1993年に着任して以来、山形大学には22年間お世話になりました。生まれ育った故郷よりも長い歳月を山形で過ごしたことになります。そのあいだ、本当に楽しく暮らしてきたので、4月から他大学に転任しますが、しばしば山形を 懐かしく思い出すことになりそうです。
 この22年間で日本も世界も大きく変わりました。1993年は冷戦構造の終焉直後で、未来について明るい展望が広まっていましたから、当時の私は格差社会の到来や、民族・人種・宗教間の対立の激化など予想もしていませんでした。しかし今、世界には他者に対する想像力の欠如や不寛容が蔓延しています。
 私はロシア語と欧米文化論、表象文化論の授業を担当してきました。これらの授業には共通点があります。それは、言葉であれ知識であれ、価値観であれ美意識であれ、他者の何かに触れる試みだということです。
 私たちは他者にはなれないし、その必要もありませんが、他者の価値観や認識を知ることはできます。そしてそういう知識は、自己主張ばかり声高に叫んだり、他者を嘲笑したりするような、安易で怠惰な姿勢を私たちに許しはしません。
 学生の皆さんが自分たちと異なる声に耳を傾けることの楽しさと大切さを持ち続けてくれるなら、教師として異文化研究者として、これに勝る喜びはありません。

山大での28年

藤澤 秀光

 山大での28年間を通して私は、様々な体験を味わいました。それと同時に、その期間、若い学生諸君の輝ける時代と一緒に歩むことができたことは、この上ない喜びでした。
 その中でも、私は何人かの学生に、海外留学という夢の実現のため、助言をする機会がありました。とくに、英語圏のみならず、90年代には、余りなじみのなかった、イスラエル、ミャンマー、タイ、フィンランド等にも、学生を送れたのは、うれしい体験でした。
 この体験を通して、若者たちに夢の実現を可能にする手助けができたことは、うれしい極みでした。
 最後に、人文学部の優秀な同僚の先生方、心やさしい事務職員、図書館員、管理作業員の皆様、大変おせわにになり、ありがとうございました。

1999年(平成11年)5月 米国ケンタッキーでの研修旅行でブルーギルを釣る(本人は左から2番目)

退職にあたってのメッセージ

山根 純佳

 大学教員として初めて赴任した山形での5年間は,これまでの人生のなかで,もっとも充実した日々でした。雪国の暮らしは少し不安もありましたが,雄大な蔵王の自然,おいしい食材,子どもと訪れた広大な公園の数々,ゆったりと流れる時間に,せっかちな私も心安らぐ日々を過ごすことができました。
 一方でこの間に,東日本大震災による被災,避難という問題に直面し,社会学者として何ができるのか,学生たちと共に考えてきました。これからは大学も住まいも首都圏になりますが,東北とつながる一員としてこの問題に取り組みつづけていくつもりです。
 かけだしの教員で,授業準備をしながら学んでいる状態でしたが,一生懸命授業を聞いてくれた学生さんたちには本当に感謝しています。「山大に来てよかった」と思って笑顔で卒業してくれることが,教員として一番の幸せです。日々の教育・研究を支えてくださった教職員の皆さまにも心から感謝しております。本当にありがとうございました。

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