三つの『その前夜』
── 明治期におけるツルゲーネフの翻訳と受容をめぐって ──

Last Updated Feb. 19, 2013


@構成

  はじめに

  一、知られざる最初の完訳(五七居士 ※佐波武雄)
    1 「ナカヌウネ」絶交事件
    2 『憂国憐才 美人草』と『あらしの花 美さほ草紙』
    3 『美さほ草紙』のテクスト
    4 解放のパトスと政治小説

  二、明治作家たちのミューズ(コンスタンス・ガーネット)
    1 ツルゲーネフの英訳とガーネット版
    2 花袋の『蒲團』と《その前夜》

  三、実り多き重訳(相馬御風)
    1 相馬御風とツルゲーネフの翻訳
    2 脱落と誤訳
    3 自然観への共感
    4 書評
    5 石川啄木と「ツル先生」の“On the eve”
    6 芸術座の『その前夜』劇と『ゴンドラの唄』

  結びにかえて


@はじめに

 一八六〇年にツルゲーネフが発表した《その前夜》 は、長篇小説としては《ルーヂン》(一八五六年)、《貴族の巣》(一八五九年)に続く第三作目であり、《父と子》(一八六二年)の前の作品に当たる。
 この作品でツルゲーネフは、トルコの圧政に苦しむ祖国を解放しようとするブルガリア人留学生インサーロフを登場させた。それまでのロシアが知らなかった新しいタイプの男性の強い意志と行動力に惹かれた女主人公エレーナは、彼と秘密裡に結婚した後、悲しむ両親を尻目にふたりで彼の祖国に向けて旅立つ。悲願成就を目前にして、病後のインサーロフはヴェネツィアで非業の死をとげるが、エレーナは夫の遺志を継ごうと、ひとりアドリア海を渡るというのが、大まかな筋である。
 この《その前夜》を完訳したものが、明治時代には三つあった。
 ひとつは明治二十二年(一八八九年)に五七居士(佐波武雄)が「やまと錦」に連載した『あらしの花 美さほ草紙』で、これは《その前夜》の訳としてはもちろん、ツルゲーネフの長編小説すべての中でわが国で最初に完訳されたものでありながら、その後忘れ去られていた。
 もうひとつは、明治二十八年(一八九五年)にロンドンで刊行された、コンスタンス・ガーネットによる英訳の "On the eve" である。この訳を含む彼女の『イワン・ツルゲーネフ小説集』全十五巻は田山花袋・島崎藤村・國木田独歩らに文学的開眼をもたらした。
 三つ目は、そのガーネットの英訳から相馬御風が明治四十一年(一九〇八年)に重訳して出した『その前夜』で、広く読まれ、石川啄木ら文学者を刺激して実り多かった。
 二葉亭四迷の『あひゞき』(明治二十一年、一八八八年)の衝撃的登場以来、ツルゲーネフが日本の近代文学の発展に多大な影響と寄与をしてきたことは言を俟たない。わが国におけるツルゲーネフ受容を概観した研究には、安田保雄の「日本におけるツルゲーネフ」をはじめとして優れたものが少なくないが 、これまで扱われて来たのは主に《猟人日記》や《散文詩》といった短篇(の集まり)と、長篇小説では専ら《ルーヂン》、《父と子》と《処女地》に関心が集中した。本稿ではこれまであまり注目を集めて来なかった《その前夜》に対象を絞り、ツルゲーネフの翻訳と受容のもうひとつのかたちを示してみたい。


@所収

川戸道昭・榊原貴教(編)
『図説翻訳文学総合事典(全5巻)』 第5巻:日本における翻訳文学(研究編)
大空社,2009年,172ー191頁



『ゴンドラの唄』と『その前夜』 の入口へ