マルチな時代の
外国語教育

忘れられない体験
   いささか個人的な話から始めることをお許し頂くと,私の最初の「外国語」体験は実は村山方言でした。標準語で育った幼い私には親の実家のある河北町の言葉は謎めいた呪文のようでした。10歳くらいの夏休み,ある家からの帰りしなに,「おはよッス」や「こんにちはッス」からの類推で,思い切って「さよならッス」と口にしてみました。その瞬間私の前にそれまで閉ざされていた世界が開かれたのです。初めて「外国語」が通じた喜びは,その直前のドキドキする緊張感とともに幼い胸に深く刻み込まれました。
   もう一つ鮮烈な印象を残しているのは,ホースの水を引っかけられた従弟が叫んだ「やばつぃ!」という言葉でした。標準語では「つめたい」の一語で済ませるところを「つったい」や「やばつぃ」と言い分けていることが判ったときは衝撃を受けました。自分の話す言葉とは別の「表現」があることを知っただけでなく,もう一つ別の「ものの見方」があることに気づかされたからです。

開けゴマ!
   考えてみれば,外国語を学び知ることの原点はこんなところにあるのではないでしょうか。一つの言葉しか知らないと,凝り固まった見方から抜け出せません。方言や外国語に接することによって,人は自分の言葉やものの見方が唯一絶対のものでないことを知るのです。様々な言葉を知る度に世界は驚きに満ちた新しい顔を見せてくれます。言葉は世界を開くカギなのです。ちょうど私の「さよならッス」が「開けゴマ!」となったように。

多様性の時代
   現代世界はますます複雑化,多極化の様相を深めています。21世紀に向かう今日のキーワードは「マルチ」です。この「多様性」の時代に日本語と英語だけで事足れりとするような考え方は,きわめて視野の狭い,時代錯誤的なものと言わざるを得ません。未来を担う若者には様々な外国語に接して,新時代に対応できる多角的なものの見方と柔軟な思考力を養うことが求められているのです。

山形大学における外国語教育
   さて,山形大学の教養教育では現在,英語,ドイツ語,フランス語,ロシア語および中国語の五カ国語の授業が開講されています。英語以外の四つの外国語(「初修外国語」と呼び慣わされています)は,多くの学生にとって初めて接する新鮮なものでしょうし,本学における教養教育の理念からしても,みなさんには様々な外国語に貪欲に挑戦してもらいたいと思っています。最初の一年の間に,みなさんは英語と一つの初修外国語を学ぶことができるようになっています。

明日に向かって
   向学心旺盛な学生諸君には大変申し訳ないのですが,現行の時間割構成では,残念ながら教養教育の一年間で初修外国語を同時に二つ学ぶことはできません(もちろん二年以上かければ可能です)。また,多様なニーズに応えるという点からすると,開講されるべき外国語がまだまだありそうです。
   多くの外国語のメニューの準備とともにそれぞれの言語をさらに深く学べるように,という二方向の要請をカリキュラムの中でどう折り合いをつけてゆくか――教養教育と専門教育にまたがる今後の課題でありましょう。
   どうか尻込みせずに様々な外国語の世界を旅してみて下さい。
   言葉が通じる喜びと,言葉によって世界が開かれてゆく感動をあなたにも――


イワン・イワーノヴィチと
イワン・ニキーフォロヴィチが
喧嘩した話

   初めてロシア文学の古典を翻訳で読み出した頃,登場人物の名前に難儀したものだ。ロジオン・ロマーノヴィチとラスコーリニコフとロージャが同一人物だと納得するまでに時間がかかった。ナスターシャ・フィリッポヴナだのコンスタンチン・ガヴリーロヴィチだのには舌を噛みそうになった。
   やがて大学でロシア語を学んで,名前の謎が解けた。ロシア人の名前は三つの部分から出来ている。例えば現在の大統領ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンの場合,ボリスが名,エリツィンが姓,その間のニコラエヴィチは父親の名から作られる父称(ふしょう)という部分で,大統領の父親がニコライという名であることがわかる。この伝でいくと私の名前はナオーキ・ハルーオヴィチ・アイザーワとなろうか(私の父は春夫です)。
   相手を名字で呼ぶのはよそよそしいので特別な場合に限られる(社会主義時代はタワーリシ(同志)を姓に冠する呼び方もあったが,今は聞かれない)。名と父称までを呼ぶのがふつうだ。一方,親しい人の間では愛称で呼び合う。さしもの大統領もボーバなどと呼ばれて相好を崩しているに違いない。ロシア人の名前は翻訳者泣かせでもあるが,タチヤーナという女性の愛称ターニャを古人が「タアちゃん」と訳しているのは微笑ましい。
   小文の題は19世紀のある滑稽譚から拝借したものだが,ロシア人はよほど名前に対するこだわりや思い入れがあるものと見える。ミーシャの愛称で知られるクマにミハイロ・イワーノヴィチ・トプトゥイギン(踏み鳴らす意から作られた姓)なる「本名」まであるのにはまったく恐れ入谷の鬼子母神。あなおそろしや…。


モスクワは涙を信じない

   文部省の在外研究員として,今年の2月から3月にかけての2カ月間,厳冬のモスクワで過ごす機会を得た。気温は毎日だいたい零度を前後していたが,最も寒い日は昼でも零下12度くらいだった。やはり冬のロシアに毛皮の帽子は欠かせない。
   モスクワでは研修先の世界文学研究所の図書館とコピー屋と郵便局の間を往復するのが日課になっていた。この図書館には「女帝」ガリーナ・ニキーフォロヴナが君臨していて,本の閲覧も借り出しもすべて彼女を通さなければならなかった。初めのうちは極東から来た男を鼻であしらっていた女帝も,毎日顔を合わせているうちに打ち解け,日本で地震があったそうだなどと自分から話題にするようになった。その頃には館外持ち出しもほとんどフリーパスだったのは云うまでもない。
   とにかく女性の多い国だ。どこへ行っても何をするにもたいてい女性を相手にすることになる。ロシア人の女性は働き者だ。自分の仕事への誇りも高い。この女性たちとうまく付き合えないと,ここでは生きていけないだろうと思った。そして,ロシアで仕事をスムーズかつ気持ちよく進めるためには彼女らとの「会話」は非常に重要かつ有効だということが判った。肩の凝らない雑談を通して信頼関係が築かれていくのである。格幅の好いコピー屋の御婦人は自分から20%のディスカウント(値引き)を申し出てくれたし,纏まった量になるまでコピーを預かってくれる郵便局もあった。時には日本では恥ずかしくて言えないようなお世辞も口をついて出た。やはりロシアでも女性は若く見られると非常にくすぐられるものらしい。
   心やさしい女性たちの思い出は尽きない。ダウンジャケットを針金に引っかけて鉤裂きを作ってしまい,すっかり悄気ていた私を,研究所の受付の親切な女性は「もっと悪いことだってある,って云うわ」とロシア語の言い回しで慰めながら,羽毛が出ないようにその場で簡単に繕ってくれた。お世話になったホームステイ先の主婦のローザさんにも感謝の気持ちで一杯だ。
   今私は断固として言える。ロシアの今日を支えているのはエリツィンでもその他のTVに登場するようなむくつけき男性政治家や実業家たちでもない。大地に根を張るように生きる,たくましくも心やさしい,名もない市井の女性たちであると。「モスクワは涙を信じない」という諺を噛みしめながら,私はシェレメーチェヴォ空港を発つ機中の人となっていた。


ロシアより愛をこめて

   (先日,春まだ浅いモスクワからこんな手紙が届きました。翻訳して御紹介します。)

   親愛なる山形大学の学生の皆さん!
   貴大学でロシア語を学んでいる若い人たちのお話を伺って,とても嬉しく思っています。皆さんの国と私たちの国とは日本海をひとつ隔てた間柄で,古くから交流がありました。今から200年以上も前に,漂流の果てにシベリアの大地を横切って帝都ペテルブルグに到達した大黒屋光太夫という日本人がいたことを御存知ですか?   エカテリーナ女帝に謁見を許され,再び故国の地を踏んだ光太夫の波瀾万丈の生涯を描いた井上靖氏の小説『おろしや国酔夢譚』とその映画は日本で評判になったと聞きました。
   一昨年山形を訪れた時,私は人々がロシア語を話しているのでとても驚きました。彼らは相槌を打つ時,我々ロシア人と同じように「ダー」と言っているではありませんか!   また山形の人たちは否定する時に私たちの「ニェット」に似た言い方をしているようにも見えました。これは山形に限らず,東北地方で広く見られる現象だそうですね。私は何だか,日本が身近に感じられるようになりました。「キオスク」や「ノルマ」といった言葉はそのまま日本語になっているという話は前から知っていました。
   皆さんの好きなイクラも元々はロシア語なんですよ。ただ日本で言う「イクラ」は私たちが「クラースナヤ(赤い)・イクラ」と呼んでいるもので,「チョールナヤ(黒い)・イクラ」の方はキャビアのことです。こうした面白い話はまだまだ色々ありますが,それは授業中に先生方がお話し下さることでしょう。
   いつかまた皆さんにお会いできる日を楽しみにしています(お別れの言葉「ダスヴィダーニヤ」は「また会うまで」という意味だということを忘れないで下さい)。

心からの敬意をもって
アンナ・アルカーヂエヴナ・カレーニナ


ウォッカの話

   ウォッカは「強い」酒だと思っている人が多いらしい。たしかにロシア文学や芝居・映画に登場するウォッカ飲み達の印象は強烈だ。日本人の飲食生活に溶け込まないままに,「火酒」というイメージが一人歩きしてしまったのであろうが,実際には,ウォッカはウィスキイ,ブランデー,ジンなどと同じく蒸留酒の仲間であり,アルコール度数も普通は43度前後で大差ない。時に筆者はかつて90度のウォッカという「化け物」にお目に掛かったことがあるが,本当に口の中が焼けそうで,いくら水で薄めても飲める代物ではなかった。こういう酒は極北の地で石炭を掘る男たちが仕事前に「一杯ひっかける」ためのものだという話もある。北方のロシア帝国は「不凍港」と同様に厳冬期にも凍らないアルコールを希求していたのである。
   「ウォッカ」(vodka)という言葉は,「水」を意味するロシア語 voda(「和田」と言えば通じる)に由来する。この無色透明の液体は霊妙な力の宿る「生きた水」と考えられていた。ちなみに,フランスの「オー・ド・ヴィー」(eau-de-vie)や北欧の「アクアヴィット」(aquavit/akvavit)も文字通り「生命の水」という意味であるし,同じ意味を表わすゲール語 uisgebeatha が英語の whisky の語源だと言われている。こうした言葉がヨーロッパ各地に共通して見られるのは興味深いが,歴史をさかのぼれば,遠くは「聖書」の「生ける水」,下って中世の錬金術で蒸留されたアルコールを意味した aqua vitae に通ずる由緒ある言葉であると知れよう。
   ウォッカには普通のタイプの他,「リモンナヤ」と言ってレモン色・風味のものなどもあるし,ポーランド特産の通称「ズブロッカ」(ポーランド語に忠実な発音は「ジュブルフカ」)は瓶の中にい草のような牧草が1本入っていてかすかに緑がかっているのが特徴だ。
   さてその「飲り方」(やりかた)だが,正統派なら冷凍庫に入れて瓶の回りに霜がつくほど冷やしたウォッカを小さなグラスに注ぎ,一気に飲み干す醍醐味を強調するだろう。つまみには「キャビア」(ロシア語では「イクラ」という。「魚の卵」を意味するこのロシア語が日本語に入って「いくら」になった)があれば最高だ。それを「ブリン」というクレープ様のもの(フランス料理で「ブリニ」と称するものはロシア語の複数形に由来するようだ)に包んで食べるのだが,筆者は以前餃子の皮で代用しようとして失敗したことがある。
   いくらストレートが正統派だと言っても,我々日本人の胃袋にはややこたえるという向きにはカクテルがある。ウォッカは無味無臭でクセがないのでカクテルのベースに最適だと言われる。だがその割に「偉大な」カクテルがあまり生まれていないのが残念だ。おすすめのカクテルを紹介しておこう。

   「モスコウ・ミュール」(Moscow Mule)
   (1)グラスに氷を入れ,ウォッカを45ml,ライムジュース(またはレモンジュース)を15ml注ぐ。(2)ジンジャーエールで満たし,軽く混ぜる。
   簡単に出来て「キックがある」ロングドリンク。コリンズグラスのような背の高いグラスがよい。

   「ソルティー・ドッグ」(Salty Dog)
   (1)グラスの縁に塩をまぶしつけておく(やり方は,皿に塩をまき,レモンの切り口で縁を濡らしたグラスを逆さまにして押し当てる)。(2)グラスに氷を入れ,ウォッカを40ml程度注ぐ。(3)グレープフルーツジュースで満たし,軽く混ぜる。
   潮の香りのするカクテル。グラスを回して塩を味わいながら飲む。グラスは低めのタンブラーが合う。

   「雪国」(Yukiguni)
   (1)上と同じやり方でグラスの縁にグラニュー糖をまぶしつけておく。(2)ウォッカ(40ml),ホワイト・キュラソー(20ml),ライム・ジュース(スプーン2杯)と氷をシェイカーに入れ,よくシェイクしてグラスに注ぐ。(3)あればミントチェリーを沈める。
   カクテル・グラスを使いたい。今から30年以上も前に当地山形のバーテン氏によって世に出された風情ある名作である。


ロシア文学の「赤い糸」

   なぜこの道に進んだのか本当のところは自分でもよく分からない。「この道」というのはロシア文学のことであるが,こんなものを研究したり,教えたりすることを生業(「なりわい」と読みます)としようとは,まして両親の生まれ育った地に大学講師として赴任しようとは夢にも思わなかった,というのが偽らざる感慨である。
   振り返ってみると,直接的には大学で第二外国語にロシア語を選んだ時にすべてが始まったと言えそうだ。東京大学では入学願書を出す時点で第二外国語を選択することになっていたので,受かるはずがないと高を括っていた私は,思わぬ現実の「逆襲」にいささか狼狽した。それでも,半ば冷やかしにせよ,ロシア語を選んだのは,高校二年の夏にドストエフスキイを読んで「震撼」させられたことに端を発する。
   だが,それ以前はどうだろう? 「ロシア文学」や「ロシア」と関わりがあったか? 記憶の糸を手繰ってみると,小学校六年の時,ませた女の子たちがドストなんとかという人の『つみとばつ』とかいう難しい漢字の難しい「小説」(もちろん「少年少女」向けに書き改めたもの)を読んでいるらしいのを知り,敬遠していたのを思い出す(本との出会いにも「時」というものがあります)。卒業後引っ越す私に小学校の担任の先生が貸して下さった本は『ヴィーチャと学校友だち』というソ連の児童文学だった(この本が今でも出ているのを知り,懐かしく買い求めた)。
   さらに,自分では記憶にないが,幼い私はオリンピックの時,ウェイトリフティングの「ジャポチンスキイ」という選手の名を連呼して応援していたと聞く。思い出の中で傑作なのは,母が私のカーディガンにうっかり縫いつけたイニシャルの"N"が左右逆になっていたことで,それが"I"にあたるロシア文字であることなど,当時の私が知るよしもない。ちょっとした「ボタンの掛け違い」が一人の人間の運命を決めてしまうことだってあるのだ。


初出一覧

 

※新しいものから順に載せてあります。
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