『ヴェニスに死す』
(第3章より)
 およそ誰でも,はじめて,または久しく乗らなかったあとで,ヴェニスのゴンドラに乗らねばならなかったとき,ある軽いおののき,あるひそかなおじけと不安を,おさえずにいられた人があるだろうか。譚詩たんし的な時代からまったくそのままに伝わっていて,ほかのあらゆるものの中で棺だけが似ているほど,一種異様に黒い,この不思議な乗り物 ―― これは波のささやく夜の,音もない,犯罪的な冒険を思い起こさせる。それ以上に死そのものを,棺台と陰惨な葬式と,最後の無言の車行しゃこうとを思い起こさせる。そしてこういう小舟の座席 ―― 棺のように黒くニスの塗ってある,うす黒いクッションのついたあのひじかけ椅子は,この世で最もやわらかな,最も豪奢ごうしゃな,最も人をだらけさせる座席であることに,人は気づいたことがあるだろうか。アッシェンバッハはそれを知覚した ―― 船首にきちんとひとまとめにしてある自分の荷物と向かい合って,船頭の足もとに腰をおろしたときに。

トオマス・マン(実吉捷郎 訳) 『ヴェニスに死す』
岩波文庫,2001年,64〜43頁


しきい

― 夢 ―

とても大きな建物が見える。
正面の壁には,せまい戸があけはなしになっている。戸口のなかは ―― 陰気な霧だ。たかい敷居しきいの前に,娘がひとり立っている。…… ロシア娘である。
一寸先も見えぬその霧は,しんしんと冷気をいぶいている。こおりつくような気流にまじって,建物の奥からは,ゆっくりと,うつろな声がひびいてくる。
「おお,おまえは,その敷居をまたごうというのか, ―― 何がおまえを待ち受けているか。おまえは知っているのか?」
「知っています」と,娘がこたえる。
「寒さ,飢え,憎しみ,あざ笑い,さげすみ,恥かしめ,牢屋,病気,やがては死,いいか?」
「知っています。」
「だれにも会えぬ,まったくの孤独,いいか?」
「知っています。…… 覚悟のまえです。どんな苦痛,どんな鞭うちも,しのびます。」
「それも,敵からだけではないぞ。 ―― 肉親の征矢そや,親友のつぶて,いいのか?」
「はい …… それも承知です。」
「よし。おまえは犠牲ぎせいになる覚悟だな?」
「はい。」
「名もない犠牲にか? ―― お前が身をほろぼしても,だれひとり …… だれひとり,何者の記念をあがめたらいいか。知りはしないのだぞ! …… 」
「感謝も同情も,ほしくはありません。名前もいりません。」
「犯罪もやる覚悟か?」
娘はうなだれた。…… 「犯罪も覚悟のまえです。」
声は,ややしばし,つぎの問いにつまった。
「わかっているか?」やがて声はつづけた。「現在のおまえの信念に,幻滅がくるかもしれないぞ? あれは迷いだった,あたら若い命を散らしてしまったと,さとる時がくるかもしれないぞ?」
「それも知っています。でもやっぱり,わたしははいりたいのです。」
「はいれ!」
娘が敷居をまたぐと,―― 重たい幕が,そのあとにおりた。
「あほう!」だれかがうしろで,歯ぎしりした。
「聖女だ!」どこかで,それに答える声がした。

ツルゲーネフ(神西清・池田健太郎 訳) 『散文詩』
岩波文庫,1994年,64〜66頁


『その前夜』におけるギリシャ・モチーフ
(要旨)

 ツルゲーネフの長編小説『その前夜』には,《ギリシャ・モチーフ》に連なる語句が散りばめられており,これらは作品世界をホメロスの叙事詩『イリアス』の世界になぞらえ,主人公インサーロフに古代ギリシャの「英雄」のイメージを,女主人公エレーナに「トロイのヘレネ」のイメージを纏わせる働きをしている。その結果,この作品は,「英雄叙事詩」を背景とすることで読者の想像力に訴えて壮大さを,「ヘレネ悲劇」をいわばポドテクストとすることにより「悲劇的な予感」と「不吉な影」を感得せしめるものとなっている。
 さらに,この作品に持ち込まれた≪煽情的な題材≫,≪謎めいたもの・神秘的世界≫,≪異国趣味≫などのロマン主義好みの主題は,この作品をロマン主義的に解釈する可能性を示唆しており,それに従えば,「《宿命の女》,《つれなき美女》としてのヘレネ」というテーマを受けて,エレーナもそうした系譜に連なる一人であると解釈する余地が残されているように思われる。

相沢直樹 「『その前夜』におけるギリシャ・モチーフ」
『Rusistika』V,1988年,9〜10頁