貞慶 (専修念仏批判、越後流罪)    山形大学教授 松尾剛次

 ここでは、親鸞をめぐる人々の一人として解脱房貞慶を扱う。彼は、鎌倉前期の法相宗の僧侶として、旧仏教の改革に努めた人として知られる。とくに、元久二(一二〇五)年には「興福寺奏状」の草案を制作し、建永二(一二〇七)年二月の法然教団への弾圧の言わばきっかけを作った人物といえる。親鸞は、この建永の法難により、師法然に連座して越後国府(新潟県直江津市)へ配流され、そこで四年余り暮すことになる。
 それゆえ、明治以後の仏教研究において、鎌倉新仏教の典型といえば法然、親鸞と考えられてきたために、法然、親鸞の弾圧者の側に立つ貞慶についてはさほど光が当てられてこなかった。しかし、ここでは、一見全く相違しているかに見える貞慶に注目することによって、親鸞を逆照射したい。それは、いわば白いものが黒いものを背景にして、よりはっきりと見えるようなものだ。
 貞慶は、久寿二(一一五五)年五月二一日に藤原通憲(信西)の第二子藤原貞憲の子として生まれ、建暦三(一二一三)年二月三日に五九歳で死去した。祖父通憲は、平清盛と結んで権勢を誇ったが、平治の乱(一一五九)にさいして殺害されたことで知られる。一族には、唱導家として有名な叔父澄憲を初め優れた学僧が出た。
 貞慶の僧侶人生は、応保二(一一六二)年に始まる。彼は、その年、八歳であったが、興福寺に入った。そして、永万元(一一六五)年に興福寺で出家し、同年に東大寺戒壇院で受戒した。それ以後、叔父の覚憲について法相・律などを学んだ。
 ところで、当時の興福寺あるいは東大寺、延暦寺といった寺々の僧侶たちは、実に官僧(一種の官僚)であった。すなわち、各寺で出家の手続きは行なわれるにしても、建て前としては天皇の許可を得て僧侶となり、国家から度縁(=出家証明書)をもらい東大寺戒壇ほかの国立戒壇で戒律(釈迦の定めたという規則)護持の宣誓儀礼を行ない(受戒という)、そのうえで僧位・僧官に任命されるのを典型としていた。そして、彼らの第一義の勤めは鎮護国家の祈祷であった。法然らの教団が社会的に認知されるまでは、官僧のみが僧侶集団としてひとまず認知された存在であった。いわば、僧侶たちは官僧体制のもとにあったといえる。
 もっとも、聖や在家沙弥といった官僧でない僧侶も数多くいたが、社会的には僧侶としては認知されていなかった。貞慶は、そうした興福寺所属の官僧の一人として出発したが、法然や親鸞も、元は延暦寺所属の官僧であった。
 貞慶は、その官僧世界でもエリート・コースを歩んだようで、寿永元(一一八二)年には鎮護国家の法会の中でも重要な維摩会の竪義を、文治二(一一八六)年には維摩会の講師をも勤めた。
 しかし、貞慶は、春日神の夢のお告により、官僧世界からの離脱を決意するにいたる。
 この官僧身分からの離脱を、当時の資料では「遁世」とか「隠遁」と表現されているが、遁世したはずの出家者の世界も、もう一つの世俗界であったので、遁世とか隠遁とか表現されたのであろう。とくに系図類では「遁世」と表記しているので、官僧から離脱した僧を遁世僧と呼ぶ。貞慶は興福寺所属の官僧身分から遁世したが、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らは延暦寺所属の官僧から遁世したのである。このように、鎌倉仏教初期の祖師たちは、遁世僧であった点に注意を喚起したい。
 この貞慶が、遁世し、大和と山城の国堺に位置する笠置寺に入ったのは、建久四(一一九三)年のことであった。なお、夢告による遁世と言えば、親鸞の六角堂でのそれが有名だが、貞慶の遁世も春日神の夢告による。そして、貞慶のめざましい活躍は、遁世以後に始まる。従来、遁世とか隠遁というと世をはかなんで、ひっそりと生きることをイメージしがちだが、鎌倉仏教の僧侶たちにとっての遁世とは、新しい救済活動の起点となるものであった。
 なぜなら、官僧たちには、現在の公務員の服務規定にあたるような、種々の制約があったからで、その最たるものは穢れ忌避であった。それゆえ、穢れを憚るあまりに、官僧たちの救済活動には、「たが」がはめられていたのである。たとえば、当時、癩病患者は穢れの極にある非人と考えられていたので、官僧たちは直接的な救済を行なえなかった。貞慶は、承元三(一二〇九)年には曼陀羅堂再興を発願した奈良の北山非人にかわって願文を書いているが、官僧時代には、貞慶は、そうしたことはできなかったであろう。また、寺社の復興などに寄付を募る勧進活動も、官僧たちには穢れにさわる恐れがあり憚られたが、遁世後の貞慶は、真如堂を勧進により再興したりしている。
 さて、遁世僧としての貞慶の活動は、大きく二期に分けることができる。一つは、建久四(一一九三)年から承元元(一二〇七)年までの笠置寺在住期であり、いま一つは、承元二(一二〇八)年から死にいたるまでの海住山寺在住期である。笠置寺在住期は、釈迦信仰を核としつつ、未来仏である弥勒への信仰が強烈であった時期である。海住山寺在住期は、釈迦信仰を核としつつも、観音霊場である海住山寺に移ったことに示されるように、観音信仰が強くなっていった時期といえる。
 このように、遁世僧としての貞慶の信仰に注目すると、いずれの時期においても、釈迦信仰が中核にあったことを強調したい。というのも、貞慶といえば、春日信仰、地蔵信仰など多元的な信仰の持ち主と考えられがちだが、それらは釈迦信仰によって統一的に理解できるからである。
 彼が正治三(一二〇一)年、九月に唐招提寺で釈迦念仏会を行ない、それを恒例化したり、建暦二(一二一二)年に弟子覚真に命じて興福寺に常喜院を建て、律を講じさせ、戒律復興に努めるなどの活動も、そうした釈迦信仰の一環であった。貞慶は建久七(一一九六)年二月に地蔵講式を執筆するなど地蔵信仰も持っていたが、その信仰にしても、釈迦がおらず、弥勒の下生もない無仏の現在において、釈迦に代って救済してくれるのは地蔵であるという考えに基づくものであった。春日信仰に関して言えば、彼は春日神を釈迦の垂迹と考えていたのである。
 もっとも、仏教は一般に釈迦信仰を核とし、ことさら取上げるまでもないように思えるが、中世においては、釈迦よりも阿弥陀を重視する阿弥陀信仰が隆盛していたからである。たとえば、法然や親鸞らも、その流れに位置付けられる。
 貞慶を特徴づける思想としては、釈迦信仰以外に唯識思想がある。貞慶が学んだ興福寺は慈恩大師基に始まる法相宗のメッカである。法相宗の核にあるのは唯識思想であった。唯識思想というのは、すべてのものは心(識)を離れては存在しないとするもので、人が生死の世界を輪廻して苦しむのは偏に己の心の虚妄な分別によると考える。貞慶も、そうした唯識思想の立場に立ち、法然らへの批判も、そうした思想からなされている。
 ところで、貞慶といえば元久二(一二〇五)年の「興福寺奏状」草案制作者として知られるが、実は、貞慶の法然らへの批判書としては、「興福寺奏状」だけではなく、「心要抄」や「観心為清浄円明事」もあり、それぞれ批判の内容に相違がある。しかし、先述した意味からも、親鸞との関係でいえば「興福寺奏状」の内容を紹介せざるを得ない。そこで、以下に、述べてみよう。
 「興福寺奏状」は、法然らの活動には九つの失があることを述べて、朝廷にその禁断を求めている。すなわち、第一に新宗を立つる失、第二に新像を図する失、第三に釈尊を軽んずる失、第四に万善を妨ぐる失、第五に霊神に背く失、第六に浄土に暗き失、第七に念仏を誤る失、第八に釈衆を損ずる失、第九に国土を乱る失、の九つである。
 第一は、新宗を立てるには天皇の許可を得る必要を説いたものであるが、当時の僧侶集団が官僧体制下にあったことを逆に示している。第二は、法然門下が「摂取不捨曼陀羅」という、阿弥陀仏が口で「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依するという意味)と称える口称念仏者のみを救い、その他の行を行なう者を救わない図を描いたことを批判している。
第三は、法然門下が余行とするものには、たとえば「南無釈迦牟尼如来」と称えることも入っているなど、教主である釈迦をないがしろにするものと批判している。第四は、釈迦の教えは八万四千の法門と呼ばれるように数多くあるが、念仏のみをとって他を捨てていることを批判している。第五は、念仏者が、神を信仰することを否定していることを批判している。春日神を釈迦の垂迹と考えるなど、本地垂迹説の立場に立って神祇信仰を認めていた貞慶には法然らの立場は認めることができなかった。第六は、諸行でも往生できるという立場から、口称念仏を往生のための絶対的な行とする法然の専修念仏を批判している。第七は、念仏というのは、仏を想い浮かべ観じる観想念仏こそが優れているという立場から口称念仏を劣ったものと批判している。第八は、専修念仏の立場が戒律を護持するなどの行を行なう釈迦の信者を損っていると批判している。第九では、専修念仏の隆盛により、肉食女犯(肉を食べ、女性と交わる)を行なっても、口称念仏すれば極楽往生できると称して、肉食女犯など破戒をこととする輩がふえ、国土が乱れていると批判している。
 こうした批判の核にあるものは、他の貞慶の書物を合せ考えると釈迦信仰を核にした、唯識思想であった。たとえば、釈迦信仰は、批判点の第三や第八などから読み取れる。
 貞慶は、唯識思想の立場から、唯識観を重視していた。唯識観というのは、諸法のありさまを克明に心を集中して観照し、「すべてのものが心を離れて存在しない」ことを悟ることにある。この立場からは、心を浄化することは即そのまま世界の浄化を意味する。そして、念仏もその他の諸善、諸行もあるいは戒律護持もみな心を浄化する行であった。それに対して、専修念仏はそれらの諸行を否定し、阿弥陀の願力をたのむ口称念仏をのみを勧めたのである。第四、第六、第七、第八などの批判は、そうした貞慶の立場からする批判であったといえよう。このように「興福寺奏状」は、釈迦信仰を核とし、唯識思想の立場からの専修念仏批判であった。
 しかし、貞慶自身も、興福寺の官僧身分を離脱し遁世僧として笠置寺、海住山寺を拠点にさまざまな活動を展開していたことは注目される。
 さらに、先述した「地蔵講式」には、従来、親鸞のいわば専売特許と考えられてきた、「悪人正機説」も表明されており、「悪人正機説」の提起じたいは親鸞らよりも早い時期に行なっている。もちろん、彼は、親鸞らのように、専修念仏の立場ではなく、諸行による成仏の立場に立っていたにしても、思想的にも革新的な考えの持ち主であった。
 従来は、貞慶を旧仏教の改革者、ようするに旧仏教者とする。だが、彼もまた、他の遁世僧たちと同じく新仏教の担い手の一人として位置付けなおすならば、彼の遁世の理由もよく理解できよう。たんなる旧仏教の改革者であれば、官僧身分のままで改革者たりえたはずだからである。そして、貞慶が、法然、親鸞らを激しく批判した背景には、たんなる思想の相違とは別に、信者獲得をめぐる対立があったのではないかと考えている。
 

(「貞慶」『親鸞がわかる』朝日新聞社、1999 p71−73 掲載)