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「六〇年安保」

文責:松本邦彦
(2008年02月13日に増築/最終更新時:2022年03月24日(木)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。

聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

目次

1950年代の労働運動><山形大学で><運動に参加> <運動を外から見て><「安保」支持者><農家と主婦から> <専業農家と安保と高度経済成長> <主婦と会社員と60年安保と高度経済成長>大学進学><当時の大学生><学生や生徒として><知らない><メディア> <山形にて><沖縄にて><遠い話><二人の美智子> <子ども心に> <祖父上のまとめ> <「六〇年安保」後
筆名の年度別・五十音順さくいん(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が違うかも…)
2021年度
AEM」「TYO
2020年度
ISM」「KUK」「KYU」「NJF」「NKR」「SKG」「SKH」「SRM」「TKS」「TRY」「TWM」「WRA」「YGJ
2018年度
さくらんぼ」「ニャイキ
2015年度
まる」「レアル
2014年度後期
抹茶大好き
2011年度後期
はながさ」「みずたま」「みつかん味ぽん」「モンロー
2010年度後期
いちごけーき」「ニュートン」「ぷにたま
2008年度後期
日本一の蹴られ役」「はこてぃっしゅ(祖父祖母)」
2007年度後期
ちくわぶー」「みずいろ


2006年度後期

葵の丸」「エルモ」「OPEO」「olive」「カルーア」「キャラメル」「ジャスミン」「ちょ」「どんぐり」「ぷよ」「ポワ」「まんと」「メイ」「Euphキャッチャー」「ロビン」「わーい

<1950年代の労働運動>
 
・1956年当時に15歳で就職した母方の祖母/2020年度後期・日本外交史「SKG」さん
  私の祖母は朝日町生まれで、1956年6月当時15歳の時、高度経済成長による絹糸の大量生産のため紡績工場の女工募集で、中学卒業後すぐに滋賀県彦根市 にある近江絹糸紡績株式会社の彦根工場に勤めた。その工場は民間企業で、明治期の官営の富岡製糸工場とは異なり、労働者は地方の農村の出身で貧困層の女工 が多かったようだ。

  その工場は1954年に発生した大規模な労働争議(近江絹糸争議)の影響下にあった。私の祖母もそのストライキに参加した。そのストライキの要求は賃金の 増加や人権争議、労働組合への加入などだった。ストライキは団結のハチマキをしてスクラムを組み行進して、要望を訴えるものだった。そして商品倉庫の前に は商品が勝手に出荷されないように見張りを立てていた(当時はピケハリと呼んでいた)。またストライキ実行時はもちろん仕事はせず、機械も動作していな かった。

 私の祖母が言うことには高度経済成長期でも豊かだったのは社長などの資産家だけで貧しい人の現状はなかなか変わらず、商品の大量生産の労働者として低賃金で働かされていたとのことだ。

→ 「SKG」さんの感想:私は祖母の当時の出来事を聞いて高度経済成長期は国民の生活が豊かになったイメージがあったが実際は農村の暮らしというのは大変で 家族も多く兄弟の中でも年長者が働いて家庭を助けなければならなかった(祖母は二人の妹にランドセルを買ってあげた)ということが分かった。また私の祖母 が十五歳という年齢で遠い彦根まで働きに出て、ストライキに巻き込まれていたことにとても感動した。辛い労働環境であったことが理解できた。

 今回祖母の貴 重な体験談を聞いて当時のことを学び、とても勉強になった。最後に私は労働組合について具体的にどのような組織でどのような活動をしているのか疑問に思っ た。

※松本注:「近江絹糸争議」の時期は1950年代後期ではありますが、「六〇年安保」の前なので、高度経済成長のトバ口のエピソードですね。ちなみに近江絹糸争議については下記のような本が最近出ました。
・『近江絹糸争議斡旋経過―中央労働委員会による―』独立行政法人労働政策研究・研修機構、2022年3月、1800円
https://www.jil.go.jp/publication/ippan/booklet/04.html


<山形大学で>
 

・1960年当時は21歳で山形大学教育学部の四年生だった母方の祖母/2020年度後期・日本外交史「NJF」さん
 祖母は1939年生まれで、安保闘争については鮮明に覚えていた。

 当時の祖母は安保闘争には参加したくないと考えており、ピアノの練習室に友人と隠れていた。しかし、いわゆる自治会の幹部が一部屋一部屋確認したため、見つかった。その後、集会に強制的に参加させられ、デモ行進をすることになった。
 
デモ行進の際、山形県庁(いまの文翔館)前では記者が写真を撮っていたため、顔を下げるように当時の担任(ツブラキヨジ)に言われた。これは、顔が記事に 載ることで、教員採用試験に影響があるかもしれないという担任の心配だったそう。そして、行進の際は腕を組んで2回ほど行進した。行進は学部ごとにしたそ う。

※松本注:教育学でツブラ先生というと、のちに宇都宮大学の名誉教授で同大学学長にもなった津布楽喜代治先生でしょうね。津布楽先生は1929年生まれという情報があるので、1960年当時は31歳前後だったか。
     樺美智子さんのことも当時知っており、その事件があった後はデモに参加しなければいけないという気持ちになったそ う。ただ、祖母のように安保闘争に参加したくなかった人もいたというのは驚きだった。また、もう一人の美智子のことは、私が、美智子妃と聞くまではピンと 来ていなかったが、聞けば「あぁー」と納得していた。
→「NJF」さんの感 想:まず、大学側がデモ行進を止めなかったのかという疑問が残った。国立ということは政府が運営していると言っても過言ではない。その政府に対してのデモ を行っては、支援などが打ち切られる可能性があったのではないか。そうすると、デモを止めるようにするのではないかと思った。
※松本注:これらの運動は --- いまの学生のデモと同様に --- 大学としての意思表明ではなく、教員や大学生の政治活動なので、直接には文部省の管理対象ではないですね。ただし、そうした学生の運動を問題視する発想は、のちの「全共闘」「東大闘争」後の「大学管理法案」につながります。
 また、山形という地方でも大学生がデモ行進していたのは驚いた。それほど日本中を巻き込んだ大きな問題だったのだなと感じた。13年前に亡くなった祖父は当時東京にいたために、生前に話を聞くことができればよかったなと強く思った。

 また、最近の大学生はそのようなデモに参加しない、しない方が良いという考えなのではないかと思う。また、近年はSNS上での意見などが多い気がする。しか し、SNS上ではどうやっても議員には届かないし、間接的すぎるのではないかとも感じる。しかし、裏を返せば、SNS上の意見を取りまとめる人や、少しで も直接的な行動に移せる人が増えればよいのではないかと思う。例えば、プラットフォームを開設するなど、出来ることは少なくないと思った。

・1960年当時には山形市の「大沼」で働いていた祖父母/2020年度後期・日本外交史「TWM」さん
  私の祖父も祖母も山形市内にいて、祖父は山形大学付近で学生が騒いでいるのを見たことがあるそうだがそれほど大きな騒ぎだったわけではなく、また、祖母は テレビでそのような状況を知った程度だったそうで、自ら安保闘争に参加したとか、山形で「60年安保」に関する何か特別大きな動きがあったというわけでは ないようで、第6回レジメの設問だった「二人の美智子」についても知らないようだった。祖父は「樺美智子」については知っていたが、もうひとりの「美智 子」が誰のことなのか、またその後発表された遺稿集についても知らなかった。
→ 「TWM」さんの感想:授業の中でもそれ以外でも、「安保条約反対に関する運動は全国に広がっていった」という話は幾度となく聞かされて,VTRでもその 凄惨な現場を何度も見てきたため、山形でも多くの暴動が起こったことだろうと想像していたが、そうでもなかったというのはとても意外だった


<運動に参加>

 
当時16歳 父にとっての叔母/当時は神奈川県の小田原市付近在住。紡績会社の労働者/2010年度後期日本政治論「いちごけーき」さん〕
「日米安保」の議論が盛んだった1960年頃、叔母は実際に安保反対運動に参加していたことが分かった。鉢巻きをし、鉄棒を持っ て「安保反対!安保反対!」と連呼、呼号し小田原城の周りを行進したそうだ。安保反対運動にそれほど興味はなかったそうだが、会社の寮に住んでいたため熱 心な仲間に誘われて参加を決めた。労働組合が主体となり、かなりの人数が中・長期的に安保反対運動を行ったようである。

以下は補足であるが、叔母の実家は農家で生活が大変だったため、中学校卒業と同時に集団就職をした。化学繊維が主流になる前だったので、紡績会社は当時の花形産業であった。

→「いちごけーき」さんの感想:
 当初、この聞き取りは叔母ではなく、役場職員をしていた叔父にしようと考えていたのだが、叔父は「安保が重要だとかいう実感は あまりなかった。地元(福島県の旧安達郡安達町。現在は合併し、二本松市である。)では、それほど騒がなかった」とのコメントだった。やはり、地域によっ て問題への関心の高さというのは大きく異なるようである。 

 私の記憶がある頃から、叔父叔母夫婦は農家なので、叔母の人生を全く知らず、思わぬ収穫だった。身近にいる人が大学で探求するような出来事にか かわっていたことに驚くと同時に、歴史の一幕は一般人によって創られることを実感した。ただ、当の本人は事の重大性に関心があって運動に参加したわけでは ない。「活動が盛んな地域」という環境、「寮に運動熱心な仲間がいた」という外的要因が叔母を運動に駆り立てたのである。現代に生きる私たちは様々な情報 源であるマスメディアに踊らされないよう、心掛けたいところである。

<運動を外から見て>
 
・1960年当時16歳の、祖母の弟/山形市在住・高校生/2011年度後期・日本政治論「みずたま」さん〕
・聞き取り内容
 当時,山形ではあまり騒がれていなかったという印象。

 しだいに山形でもデモが起こるようになり,本人が警察学校を出た昭和39年(1964年)頃には毎日のようにデモが行われるほどであったという。山形市内のデモ行進は,七日町から霞城公園にかけて行われていたようだ。

 警察仲間からは「イスを投げられるらしい」等と聞いており,警察に物が投げつけられるほどであったという。

→聞き取りをしてみての「みずたま」さんの感想
 警察官をやっていたということで,デモに参加する側とは別の立場から話を聞くことができ,興味深かった。

 最近でいうと,私はTPP交渉参加反対デモを市内で見かけることがあったが,その様子と比べると,当時のデモの激しさを感じる。

 道路や街といった状況・時代の違いも関わっているのだろうとは思った。

<「安保」支持者>
 
・1960年当時28歳で北海道で働いていた父方の祖父/2020年度後期・日本外交史「KYU」さん

 
 私の父方の祖父は当時28歳で北海道の岩松に住んでいて、発電所・変電所の設置場所を決めたりする仕事をしていた。
※松本注:岩松で発電所というと、十勝川水系にある発電専用の岩松ダムのことでしょうね(北海道上川郡新得町(しんとくちょう)に所在するダム)。
参考→北海道電力サイト>お知らせ>岩松ダムの土木学会「選奨土木遺産」認定について 2019年9月25日 https://www.hepco.co.jp/info/info2019/1244621_1814.html /岩松ダムの概要 (PDFファイル) https://www.hepco.co.jp/info/info2019/__icsFiles/afieldfile/2019/09/25/190925.pdf 
  私の祖父は「俺の後輩には日米安保条約によってアメリカの戦争に巻き込まれるという人がたくさんいてそれをそれを抑えるのが大変だった。日本を攻撃したら それを口実としてアメリカが日本にある基地を用いることが出来るようになって、アメリカとの戦争相手にとって大きな不利になることがアメリカの敵国も分 かってるからアメリカとの戦争に巻き込まれるリスクはほぼない」と言っていた。
  また、高度経済成長当時、祖父は新三種の神器のうち、北海道だからクーラーは要らないからカラーテレビと車を買ったと言っていた。その当時、私の父方の家 族は岩松から釧路に引っ越していた。祖父は「仕事が休みの時に車を使ってお前のお父さんとその同級生を連れて納沙布岬に行ったりするのが楽しくて仕方がな かった」と私に当時の事を話した。
  “二人の美智子”に関しては私の祖父にとって何のことだか分からない様子であった。今は故人の美智子の死後まもなく出版されベストセラーとなった遺稿集の名前についても同様に何のことだか分からない様子であった。
→ 「KYU」さんの感想:私の祖父の話を聞いて、私の祖父は当時の安保闘争の状況に流されない人であったのだと感じた。それについては私の祖父が当時の安保 闘争についてあまり関心が無かっただけのようにも感じた。それは「戦争時と比べて自由に発言できるようになっただけずっと良い事」という考えが根強いから であると思われる。

 一方、高度経済成長当時の話を私にしているときはとても楽しそうな様子であり、私の父方の家族やその友人、祖父の友人 と余程楽しんだのだと感じる。それを考えたら、給料についてはあまり話したがらない人であるが、当時は給料が思いっきり上がった人がたくさんいてその人た ちが中心となって車を使って何処かに遠出してそこで金を使ったりしていて経済が繁栄していたのだと感じる。

<農家と主婦から>
・当時25歳だった父方の祖母、福島県在住の農家/2020年度後期・日本政治論「YGJ」さん
 
  六〇年安保について,自分の生活のことでいっぱいで興味を持たなかったという.ただ,近所の弟(当時22歳?)は,熱心な活動家というわけではなかった が,「安保はよくない」と小言をいっていたのを覚えていた.その後の高度経済成長の思い出は,「景気がよくなって,けっこう稼げた」.
 “二人の美智子”については正田美智子の名だけ覚えていたが,詳細なプロフィールは説明できない様子だった.樺美智子は知らず,遺稿集も知らなかった.


・当時27歳だった母方の祖母、群馬県在住の主婦/2020年度後期・日本政治論「YGJ」さん
 

  ラジオをよく聞いていたので,興味がないわけではなく,情報は届いていたような気がするが,記憶があまりない.当時28歳会社員の夫との会話でも安保につ いて話すことはなかった.ただ,学生たちが中心になって行動をおこし,言いたいことをはっきり言っていたことを評価していた.
 “二人の美智子”についてはどちらの名前も知らなかった
→「YGJ」さんの感想: 地方の福島県と関東圏にある群馬県の両者で興味関心に違いがでてくるかと思ったが,大学生ではなかったからか,どちらも覚えていることは少なかった.
 ど ちらも自分の生活を中心に考えていた.その点について驚かされると同時に,自分の立場で60年後に現在のコロナ禍の政府対応やアメリカの選挙について孫に 説明できるか考えると,自信があまりわいてこず,納得される部分もあった.ただ,当時の記憶を数十年保持して後世に伝えることに以前よりも意義を感じるよ うになったので,ノートなどに記録として残しておこうか検討している.
<専業農家と安保と高度経済成長>
・1960年当時23歳の祖父と、20歳の祖母/山形県で専業農家/2011年度後期・日本外交「はながさ」さん
 六〇年安保に関して、当時の様子や国民が何を思っていたのかということを知りたいと思い、私には戦争を経験した祖父母がいるので、聞いてみようと思った。

・「六〇年安保」についての思い出

・とにかく「反対」の声が強かった。
・高度経済成長時代の思い出
・どんどん社会が発達した。
・建物がたくさん建った。
・お米の値段が上がり、儲けが大きかった。
・景気がとても良く、借金もできた。
・「二人の美智子」というと樺美智子ともう一人
・現在の皇后様。
・「樺美智子の遺稿集については知らなかった。
→聞き取り調査をしてみての「はながさ」さんの感想
 「六〇年安保」に関しては祖父母に聞き取り調査をしたところ、上記のような情報しか得られず、私の実家のある地域でもビデオで 見たような激しい運動がおこなわれていたかどうかはわからなかった。しかし、私が高校生の時に、東大卒の国語の先生(当時58歳)に「六〇年安保反対の学 生運動をしていた」という話を聞いたことを思いだした。その話の内容と、ビデオで見た映像が結びついたとき、大学生が政治に対して意見を持ち積極的に行動 に表していたという事実に驚いた。

 また、経済成長時代にお米の値段がどんどん上がったことを聞き、現在では兼業としてなされていることが多い農業も、当時は専業でも大きな収入があったということがわかり、現在との違いに驚いた。

※松本注:その国語の先生は1960年当時は小学生でしょうから、先生が参加した学生運動は「七〇年安保」or「全共闘時代」におけるものではないかと思います。
・1960年当時には14歳で、新庄市の中学生だった父方の祖母(2021年度後期・日本外交論2「AEM」さん)
 新庄中学校にて合唱と部活にいそしんでいたため、社会問題には全く興味がなかった。新聞、テレビはあったが、新聞は読んだことはなく、テレビは高校野球や相撲を見ていた。新庄北高校の丹投手が甲子園に行ったのを覚えている。当時は高校に進学するのは三分の一強くらいで、ほかの人たちは集団就職や、実家の米作りを手伝った。祖母は米作りを手伝った。
 当時の「二人の美智子」は正田美智子、樺美智子だと知っていた。樺美智子の遺稿集の名は知らない。
※松本注:新庄北高の甲子園出場は1955年8月の第37回大会と1959年8月の第41回大会。丹信弥投手は第41回大会で県の大会5試合を1人で投げ抜いて50奪三振で最優秀投手となった。甲子園では途中降板で、南四国代表の高知商業に0―3で敗れたとのこと。
◇朝日新聞デジタル>地域>山形>高校野球【第100回全国高校野球選手権記念大会】>2018.7.18 「1県1代表」の前は http://www.asahi.com/area/yamagata/articles/MTW20180718060010005.html
 その後、寒河江の果樹農家に嫁いだ。いまではひと箱3千円程度で出荷するリンゴも、当時は倍の6千円くらいで出荷していた。経済が上向きだったというのもあるが、リンゴ農家の数が少なかったというのも原因の一つだろう。国道沿いのリンゴ畑を売って今は国道112号になっている。当時はリンゴの値段が高かったので土地としての値段よりリンゴの木一本一本に付く補償金の合計の方が高かった。
 
・聞き取りをしての「AEM」さんの感想:山形県の田舎町でのリアルな当時の様子が聞けて、安保闘争について全く興味がなかったという事実が逆に面白かった。街全体の安保に対する関心がそこまで高くなかったのかなと考えた。

 高度経済成長期には、国道が通ったり、国が豊かになったりしていった恩恵が農家にもいきわたったという話が興味深かったが、例外もあり、米農家の場合、減反政策によりコメの値段が暴落して、新庄の実家では出稼ぎに行ったりして、なんとか生計を立てていたという。景気というのは日本のどこで何をしている人にも影響を与えうるものなのだと実感した。
 祖母の親世代は安保闘争や日本の政治的ニュースなどにどの程度関心があり、どのようなことを考えていたのかが知りたくなった。また当時高く売れたリンゴなどの果物は農協を経由してどのような人たちに売りさばかれていたのかも知りたい。

<60年安保と高度経済成長>
当時24歳の祖母24歳の祖母の友達/2011年度後期・日本外交「みつかん味ぽん」さん〕
・当時24歳の祖母(小樽在住で主婦)の場合
 学生運動の最中に女子学生が亡くなったという事件が印象的だった。自分は家事・子育てに専念していた。

 高度経済成長の思い出 プロ野球、相撲などが盛んだった。自家用車が普及し始める。女性ドライバーの登場、単代が設立され、女性が短大に行くようになる。ミス・ユニバース、ミス・○○といったコンテストが流行る。

 「樺美智子」については知らない。その遺稿集の名も知らない。

・祖母の当時24歳の友達(杉並区在住で会社員)の場合
 当時は夢中で働いていた。自分のことでいっぱいいっぱいだった。六〇年安保のことは学生時代からの友達で会社も同じ人とは話し はしたが、批判とか、政治的なことは言っていない。議論になるほどではない。会社のことが話題の中心、会社第一、他に余裕なし。1960年以前から大学で は学生運動が盛り上がっていた。

 働けば働くほどお金が入った時代。会社が儲かると、ある程度社員へ還元された。教育費にお金がかかり始める。

 「樺美智子」については知っている。遺稿集があることは知っていたが、名前まではわからない。

・聞き取りをしての「みつかん味ぽん」さんの感想
 祖父母などに昔の話を聞く機会が今までになかったため、今回お正月に祖母の家に行って六〇年安保時代の話を聞くことができてよ かったと思いました。私が歴史としてどこか他人事のように考えていたことが、祖母と祖母の友達の若いころには世間を騒がすニュースだったのだと実感するこ とができました。

 話を聞かせてもらって感謝をするのは私のほうなのですが、祖母と祖母の友達からは「昔のことを思い出す良いきっかけになった。聞いてくれてありがとう。」という言葉をもらいました。祖母は樺美智子さんの事件が印象的で覚えているようでした
が、「樺美智子」という名前を覚えていませんでした。

・1960年当時には17歳くらいで山形の商業高校に通っていた祖母(2021年度後期・日本外交論2「TYO」さん)。
 祖母は商業高校を卒業後すぐに就職した。祖母の周りでは安保の活動をしている人はいなかった。家にテレビ、新聞がなかったので安保のことは当時、知らなかった。向かいの八百屋にしかテレビはなかったので、そこにお邪魔してテレビを見ていたという。祖母に聞いた感じだと、安保自体については覚えていたがその内容についてはあまり覚えていなかった様子だった。

 「二人の美智子」が正田美智子と樺美智子というのは祖母は知っていた。樺美智子については「何かに巻き込まれて死んだ人」というイメージがあった様子だった。正田美智子については先の平成時代の天皇の后だとはっきりと覚えていた。樺美智子の遺稿集については知らなかった様子だった。

 祖母は高校卒業後にすぐに就職したのだが、高度経済成長の思い出は、働いていて給料額が今までとは違うので驚いたと言っていた。また、祖母の友達も「金の卵」として東京へ集団就職した人が多かったと言っていた。高度経済成長についてはよく覚えていた様子だった。
 

 →「TYO」さんの聞き取りをしてみての感想:安保についての思い出がそんなになかったのが意外だった。祖母の周りには新聞もテレビもなかったと言っていたのでそれが影響しているのかもしれない。個人的には樺美智子について知っていたのが驚きだった。また、テレビがあるところにお邪魔して見に行くという習慣が今の時代を生きている自分からは想像もできなかった。高度経済成長の聞き取りでは祖母の口から「金の卵」と出てきたので驚いた。授業中のビデオでは東京への集団就職はどこか遠い話だと思ったが、祖母のようにこの時代を経験した人に聞き取りを行い、より理解を深められたと思う。
<大学進学>
・1960年当時は十代で中学生だった母方の祖父(岐阜県多治見市在住)と父方の祖母(愛知県西尾市在住)/2020年度後期・日本外交史「SRM」さん
 私の祖父は「六〇年安保」当時の日米安全保障条約に反対だったと言っていた。当時の国会議員の中でも多くの人が反対していたのではないかという記憶があるという。日本国民は80%の人が反対していたと思われるそうだ。

 私の祖母は「六〇年安保」当時の思い出について、「六〇年安保」という言葉を聞いたことがある程度で詳しいことについては知らなかった。

  次に高度経済成長時代について私の祖父は、建築大工になる勉強をするために大学へ行こうとしたが、当時は今よりも大学に入学することが難しく、学力がない と大学に行けなかった。それでも、学校の先生からは「お前なら大学に行ける」と言われていたという。当時は中卒で働くと「金の卵」と呼ばれていたという。 働いたとしても賃金は安かったという。

 私の祖母は高度経済成長時代について、中卒で地元の農協で働きながら夜間の高校へ通っていたという。仕事の面では、残業をしたとしても一切残業手当はなかったという。

 「二人の美智子」について私の祖父と祖母は、正田美智子については知っていた。正田美智子とは現在の上皇后のことであり、当時は一般の人が初めて皇室に嫁ぐということだったので知っていたという。しかし、もう一人の美智子については知っていませんでした。

→ 「SRM」さんの感想:私は祖父と祖母に「六〇年安保」当時と高度経済成長時代の思い出についての話を聞き、「六〇年安保」当時の人々は日米安全保障条約 に反対していたと思っていたが、ここまで多くの人が反対していたとは思っていなかった。また、高度経済成長時代は日本国民の生活が豊かになったというイ メージがこれまではあったけど、話を聞いて実際は豊かではなく、とても苦しい生活環境であったことが理解できました。労働環境もとても辛い環境であったこ とが理解できました。今回、祖父と祖母に話を聞いたことでとても多くのことを学ぶことができたので、このことを日本外交史の学習に生かしていきたいと思い ました。
 
<当時の大学生>
当時20歳の祖母と24歳の祖父/2011年度後期・日本外交「モンロー」さん〕
・当時20歳の祖母(岐阜在住・大学生)の場合
 1960年頃はたくさん学生によるデモがあった。高度経済成長の時代は大阪万博や東京オリンピックなど、日本が高揚していた。

 「二人の美智子」は聞いたことがあり、覚えているが、「樺美智子」ともう一人は思い出せない。遺稿集は知らない。

 当時は同じ大学生だったが、田舎の大学生だったので、東京で起きていることは想像できず、別世界のことだと感じた。また、考え方が自分とは違っており、反社会的な運動に共感はできなかった。

・当時24歳の祖父(名古屋在住・会社員)の場合
 祖父が大学にいた頃は、自分の通っていた名古屋の大学でも学費を下げることを訴えた学生運動があった。デモは普通は労働者がするものであって、学生が政治に目覚めたと感じた。

 今のように技術は成長していなかったが、産業が発達してきて、人びとの所得が増えて、人々の暮らしに余裕が出てきた頃だった。

 「二人の美智子」や「樺美智子」は覚えている。東京大学の学生のデモに共感はできないが、米国に統治されていたときは団体行動をするとすぐに目をつけられていたが、そのときとは違い、国民が自分の意見を言えるようになり、デモを境に政治が変わってきたと感じた。

・聞き取りをしての「モンロー」さんの感想
 聞き取りをしてみて、教科書などではGHQによる統治で国民の自由が認められるようになったと学習したが、実際にはそうではなかったことを知り、驚いた。

 戦時中に比べ、国民の暮らしが豊かになり、大阪万博や東京オリンピックなどで日本国内が高揚している中で、学生が政治にとても強い関心を持ち、デモを起こすことによって自分の意見を言うことができるということは、良い時代だったのかなと思った。

1960年当時は22歳で大学生だった父方の祖父と当時高校生の祖母/2020年度「WRA」さん
 父方の祖母に、直接会うことが困難であったため、テレビ電話形式で聞き取りを行った。
 祖母は1960年当時は高校生で新潟県に住んでいたため六〇年安保闘争については新聞などで知る程度であり、生活に大きな影響はなかったと言っていた。しかし、すでに他界している私の祖父(1938年生まれ)が祖母に話した内容についても聞き取ることができた。
 祖父(父方、聞き取りをした祖母の夫にあたる)は1960年当時群馬大学に在籍しており、東京大学同様の運動が行われていたと話していたそうであった。しかし、親(私の曽祖父)が警察官であったため運動には参加しない「ノンポリ」であったと話していた。
   「二人の美智子」について尋ねてみると、正田美智子さん(現上皇后)と樺美智子さんを知っていると述べていた。上皇后様については、きれいな方でパレード の様子をテレビで見たと言っていた。樺美智子さんについては、安保闘争の際に亡くなってしまった方だということまでしっかりと記憶していた。しかし、遺稿 集の名前については知らなかった。
  高度経済成長については、皆が頑張りまっしぐらに駆け上った時代だという認識であった。特に、「三種の神器」と川端康成がノーベル賞を受賞したこと〔※松本注:受賞は1968年12月。〕に ついての印象が強く残っているようだった。この期間は勉学に励み、一生懸命働き、また、結婚・出産と大きな変化が祖母自身にも多く起こった時期であり、経済よりもそちらの内容の方を詳しく話してくれた。

 佐伯栄養学校(当時は二年制であった)に通っていたため、当時の東京の大森を通学路として通っており多くの有名人を毎日のように見ていたそうだ。特に、三島由紀夫が体を鍛えていた様子を見たことや同じ電車に乗ったことをはじ めとする数々のエピソードを聞かせてくれた。

※松本注:佐伯栄養学校は今は「世界初の栄養学校」を称する佐伯栄養専門学校 http://www.saiki.ac.jp/ ですね。 2015年に 東京都大田区大森から同区の蒲田に移転したそうな。
→「WRA」さんの感想:  今回の聞き取りを行ったことで、当時の様子を知るだけでなく祖母や祖父がどのような人生を送ってきたのかを幼少の頃の話から聴くことができたのでよかっ た。このような機会がなければ、詳しく時間をかけて尋ねることはなかったと思うからである。これまで知っていたことよりももっと濃い内容を教えてもらい、 祖母への感謝の気持ちと同時に同じ女性として学ぶところが多くあり尊敬する気持ちが以前にも増して強くなった。また、自分が日本史の授業で学んできた内容 は一部であり、地域によって差があることが分かった。今後は他の親類にも話を聞いて、教科書で学んだ内容と生の声の両方から日本の歩んできた道を学びたい という意欲がわいた。現在は親類と会うことが難しいので、テレビ番組や書籍を通して当時の思い出などに触れていきたい。
・1960年当時は19歳で熊本の大学生だった母方の祖父/2020年度後期・日本政治論「NKR」さん
 六〇年安保当時の思い出は、祖父の知り合いで少し上の年齢の人が運動に参加していているというのを知っていた程度。ビラをもらったりしたそうだ。本人は当時政治や安保闘争に興味が無かったそうだが、国会を取り囲むデモ隊の報道は今でも覚えているという。 

 その後、祖父は大学を卒業し愛知県の新聞社に勤め広告業務をしていた。勤め始めた頃は給料が低くつらい生活を送っていたが、高度経済成長期を迎え、給料が 年々倍になっていくことに衝撃を受けたそうだ。また、高度経済成長期は広告の量も増え、仕事が忙しく楽しくなったという。

 「ふたりの美智子」について祖父に聞いたとき、上皇后美智子陛下のことは覚えていたが、樺美智子さんのことは私が知っているか尋ねたときに思い出したよう だった。遺稿集の名前も「あー、あったね」と答えるだけだった。ミッチーブームについての話題は、当時の女性が敏感だったという。

→ 「NKR」さんの感想:祖父の出身が田舎ということもあり、都会では大変なことが起こっているという感じで話していたのが印象に残った。それでも報道でデ モ隊の映像が印象に残っているのは当時の人から見ても衝撃的なものだったからではないかと思う。また、高度経済成長期は祖父にとっても思い入れがあるよう で、当時の広告に関わり、祖父自身が書いた宣伝文章も多くあることを話してくれたことが高度経済成長期の雰囲気を知る手がかりになった。


<学生や生徒として>

・酒田にいた祖父母/2020年度後期・日本政治論「KUK」さん
 
<当時18歳だった母方の祖母>
  当時は、家族の農業の仕事を手伝いながら、洋裁学校で学んでおり、住んでいる場所は、1945年前後の時と同じであった。
 60年安保については、新聞で知ったが、あまり興味はなく、悪い印象だけあった。周辺の人も、60年安保については、あまり興味がないという人が多かった。なので、「ふたりの美智子」については、当時も現在も知らず、遺稿集の名も知らなかった。
 ま た、高度経済成長期には、集団就職で見送りに行ったり、今でも葉書を時々送り合っている知り合いが東京の紡績工場で働いているのを見学しに行ったりしたこ ともあった。ただ、高度経済成長自体については、農家にとってはあまり良くなかったらしく、農業だけでは暮らしていけず、他の仕事もしなければならなく なった起点でもあった。
<父方の祖父>
  当時は市役所に勤めており、1945年前後と同じく酒田市の新堀に住んでいたが、その少し前までは、新潟大の人文学部で学んでいた。
 60 年安保については、新聞で知っていたものの、興味はなかったらしく、映画鑑賞や一人旅行をしており、「ふたりの美智子」や遺稿集については、知らなかっ た。60年安保闘争前も、学生が行進をしている場面があったそうだが、「またやってるな」程度であった。ただ、そういった学生は、厄介事などは起こしてい なかった。また、酒田では、安保闘争に行ったという人は少なかった。
 高度経済成長期には、結婚(20代後半)しており、農協に勤めていた。物価が高かったが、収入も高かったため、生活には苦労していなかった。東京タワーといったものには興味がなかったが、毎年、20年間ほど東京の美術館に行っていた。
<父方の祖母>
  当時は、高校に通っており、1945年当時と同じ家(酒田市の杉之浦)に住んでいた。60年安保については、新聞やテレビで知っていたが、興味はなく、「ふたりの美智子」や遺稿集については、知らなかった。
 高度経済成長期には、結婚しており、新堀に来て専業主婦をしていた。貯金の利率が高かったため、貯金すれば暮らしていけるといった事を家族に言われたこともあった。
→聞き取りを終えての「KUK」さんの感想:60 年安保当時、どちらもほとんど住む場所は同じであったが、その少し前に祖父は、新潟大で学んでいたため、安保闘争に知り合いもしくは自分が参加していたな どの話があると思っていたが、予想とは異なり、そういった経験はなかったようだ。しかし、学生が行進をしていたことは、実際にあったのだなということが聞 け、授業中に見たあの映像がより現実味を帯びたような気がした。一方で、その闘争の中で、学生側がやはり何か厄介事を起こしてそうではあったが、これも予 想とは異なり、少なくとも新潟大学周辺ではそのようなことはなかったそうで、授業で感じた当時のイメージとは異なるイメージを抱いた。
 高度経済成長期の話も、貯金の利率が現在と比べて著しく高く、収入も高いといった良い面がやはり多いと感じる一方で、これは、授業内でも少し触れられたが、農民にとっては、悪い側面が多かったことを聞き、そういった一面もあるのだなと改めて感じた
<知らない>
当時30歳 祖父/2006年度後期・アジア政治・外交論「olive」さん
 あまり六〇年安保闘争の記憶はないそうです。
 →「olive」さんの感想:意外と安保闘争のことを知らなかった。
当時30歳前後 祖母/当時は宮城県利府町在住/廃棄物処理関係の仕事/2010年度後期日本政治論「ニュートン」さん〕
あまり記憶になく、細かな内容などは印象に残っていないようだった。政治についての興味はそれほど無く、それよりも自分の普段の 生活について考えることの方が多かったようだ。それでも自分も改正には反対だと考えていたという漠然とした答えは記憶にあるらしいが、それ以上は聞き出せ なかった。
→「ニュートン」さんの感想〕当時の人々にとっても大問題であるように思える60年安保闘争であるが、意外にもあまり記憶にないとのことで、私としては驚いた。しかし現代と比べてメディアの発達がないことがはいけいにあるのだと思う。

 それより、当時は深く考えていたのかもしれないが、数十年という月日が、ただ単に記憶を曖昧にしてしまったのかなとも思った、もし自分がこの時代に生まれていたら、改定には大反対したであろうが、その記憶も平和な年月と共に流れて消えているのかと思うと悲しくなった。

 
1960年当時は26歳の祖母(新潟県新発田市在住/農業)/2015年度後期・日本外交論/史「レアル」さん
・六〇年安保については覚えていない。テレビが初めて映ったときは、嬉しかった。「二人の美智子」についても知らない。遺稿集も知らない。
→「レアル」さんの感想:東京裁判も知らないと言っていたので驚いた。それは、もう忘れてしまったのか、当時そこまで注目していなかったのかどっちなんだろうと思いました。
・当時26歳 祖父/当時は山形県在住、農家(2010年度後期・日本政治論「ぷにたま」さん)。
 六〇年安保を含めて、当時の記憶はあまりないと言っていた。家のために精一杯働いていたという。戦後の復興中で、どんどん良くなっている盛りだと言っていた。
→「ぷにたま」さんの感想〕授業を受けて、六〇年安保は大きな出来事のように感じたが、実際その当時を生きていたら、自分の生活 に直接関わる出来事でないと印象は薄いのだなと感じた。たしかに、私自身も何十年も生きていたら、十代、二十代の出来事をはっきりと思い出せる自信はな い。
当時23歳くらい 祖母/当時は宮城県松島町在住/(2007年度後期・日本政治論「みずいろ」さん)
政治には無関心で、あまり記憶にないそうです。
→「みずいろ」さんの感想:安保闘争などについては、高校で学んだりしていたので、この世代の人にとっては相当な話題なのかなと思っていたが、祖母が感心がなさすぎたのか、それとも東北ではあまり話題にならなかったのか。思っていたほどの話が聞けず残念でした。
当時10代後半〜20代後半か 祖父母/当時は寒河江市/学生か農業/(2008年度後期「日本政治論」「日本一の蹴られ役」さん)
 父方のみならず、母方の祖父母にも聞いたのだが、そもそも岸信介のことをよく覚えていないようだった。この間まで首相だった安 倍さんのお爺さんだよと言ってもピンとこないようで、思い出してもらうのに時間がかかった。しかし、その後の、池田首相からのことは知っていて、彼が何を したのかも語ることができた。 

 なぜ岸信介のことは曖昧なのかと聞くと、祖父母は「その頃はテレビがなかったから」と答えた。終戦直後で、食料が全く足りない御時世だったので、政治のことにまで頭が回らなかったのだという。それでも「戦時中よりはマシになった気がする」と言っていた。

 祖父母は岸を「穏やか」なイメージだと言っていた。彼の人柄も、当時の日本の様子もひっくるめての評価らしい。「憲法改正しようと強行採決した人だよ」と言うと、驚いているようだった。

→「日本一の蹴られ役」さんの感想:今回はなかなか思うように情報を引き出せなかった。何かと忙しかった時代の話で、政治に触れ る機会がなかったから記憶が曖昧だったのだろう。ところが当時の生活のことまで詳しく覚えていないようだった。本人たちは「年のせいかね」と笑っていた が、私はいつでも聞けると思っていた話が、実は期限付きであったことに今さらながら気がつき、少々焦りを感じた。
<メディア>
当時16歳 祖母/2006年度後期・アジア政治・外交論「カルーア」さん
メディアもほとんどは安保改正反対だった。流行のように周りも安保反対と言っていた気がする。
→「カルーア」さんの感想:ふだん昔のことを祖母から聞くことはほとんど無いので、いい機会だった。ただ、当時のことは、断片的にしか記憶していないようだった。
<山形にて>
当時29歳 祖母/(2006年度後期・アジア政治・外交論「ポワ」さん)
 事実としての情報はあったが、身近なこととしては興味を持ってとらえてはいなかったという。
→「ポワ」さんの感想:安保闘争は山形など地方ではそれほど話題にはならなかったと思った。
当時30歳くらい 祖母/(2006年度後期・アジア政治・外交論「あねご」さん)
 まったく知らなかった。
→「あねご」さんの感想:「六〇年安保闘争」という大きな出来事は山形にはあまり伝わってこなかったようである。田舎は平和で良かったと思う反面、日本の未来に関係する出来事に全く関わることもなく、ただ時代の流れに流されていったことは問題のような気がする。
・当時25歳くらい 寒河江にいた祖父/2020年度後期「ISM」さん
 私は私の母方の祖父に聞き取りをした。祖父は六〇年安保闘争が起きていた当時、現在住んでいるところと同じ山形県寒河江市に在中し建設会社で働いていた。祖父は、現在86歳なので六〇年安保当時は25歳くらいだ。

 私は祖父に六〇年安保闘争について尋ねたが、祖父はあまり政治に関心の強い人ではなかったらしく、当時の自分が安全保障条約自体について賛成 だったか反対だったかは覚えていないようだった。しかし、学生の大規模デモやデモ中に起きた衝突で死亡者が出たなどという内容の記事が新聞の一面に掲載さ れ、ラジオで連日放送されていたので安保闘争のことを聞いていて面白いものではなかったと言っていた。

→「ISM」さんの感想:今回、祖父に聞き取りを行って私が考えたことは、国民の政治への関心興味とマスメディアの関係は大変 強いものだったのではないかということだ。実際に祖父はデモの惨状や安全保障条約の詳しい内容は新聞やテレビで知ったといっていたし、テレビの進化によっ て放送されるニュースに対する関心が強くなったといっていた。これからの外交史やほかの歴史の授業で国民の世論について調べるときは、その時のメディアの 普及状況なども考慮していきたい。また、GHQが日本占領の時メディアをどのように利用してきたのかなど詳しく調べ直し、利用した側の意図はどのようなも のだったかを考察して外交史の理解を深めていきたい。
当時24歳の祖父と18歳の祖母/2018年度後期・日本政治論「さくらんぼ」さん
・祖父は昭和35年当時は24歳で、山形市・自営業(米菓製造業)
・祖母は当時は18歳で、中山町・銀行員
・聞き取り内容:
・安保闘争について
   東大生たちが安田講堂でスクラムを組んで反対デモを起こしていた。山形ではそういう騒ぎはなかった。山大生も起こすのではないかと心配だった。なぜ勉強 もせずに、逮捕されるほど反対運動をするのかと疑問だった。本当は野党中心に反対すべきなのに、学生中心で騒いでいた。政府によって学生が対象に変に再軍 備され、また戦争になることを恐れていたのではないか。

 東大は1年間立ち入り禁止になり、東大に入りたかった受験生が東北大、京大に流れていた。

・岸首相のイメージ
 戦争に負けて、これから日本国民は頑張らなくてはいけないと頑張っていた印象。敗戦国日本を建て直そうと、アメリカと交渉していた。アメリカは敵というよりも、日本の面倒を見てくれ、協力してくれた国。
・安倍首相の今の政治
  自民党の一党独占で、不安はある。憲法改正については、祖父母は平和憲法を守るべきという立場。戦争が始まるような再軍備はして欲しくない。しかし世界で 紛争が起こる度に日本が何もしないで資金援助だけするというのも、他の国に日本がなめられてしまうことになる(領土問題のこともあるし)。だからといって 外国に軍隊を送るとなると違憲となり、改正しないといけないので難しい問題。

 安倍首相はなんとか憲法改正して協力しようとしているが、また戦争が起こるのではないかと心配になる。憲法を改正したところで、そのへんの兼ね合いが安倍首相の力量、判断が試されると思う。

 日本が軍備に費用をかけても、アメリカ、ロシア、中国はもっとすごい。戦争が起こることは本当に恐ろしいことであるので、武力ではなく話し合いで解決してほしいと思う。

・感想
 祖父は安保闘争が激しかった当時は働いていたが、安保闘争が始まる前、富山大学の学生だった祖父は、何か社会に対して不満があ り、学生みんなで大学内にて声を上げて行進したという(何に対して訴えていたかは忘れたらしいが)。そうやって学生たちが中心となって社会への不満を訴え るという行動は今の学生はしないし、それだけ当時の学生の自国への意識が高かったのだと思う。学生の政治に対する関心がそれだけ高いと、選挙の投票率も高 いのだろうなと思った。

 また、安倍首相の憲法改正について祖父母は「難しい問題だけどね〜」と言いながらも平和憲法を守って欲しいという意思は堅かった。敗戦国としての日本を見てきたからこそ、戦争のない世界を望む気持ちが大きいのだと思った。

・当時20歳、山形県在住の会社員だった祖父(2014年度後期「日本外交論/史「抹茶大好き」さん〕
 新安保条約を採決するとアメリカの傘下に入るような気がしていたので反対だった。また、自民党の強行採決で決めるやり方には反 対だった。しかしデモに参加する気もなかったし、実力もなかったのでわざわざ東京に行こうとは思わなかった。しかし山形県にもデモに参加していた人はい た。

 高度経済成長については昭和29年に吉田茂の「バカ野郎解散」があり、その10年後の昭和39年「もはや戦後ではない」「貧乏人は麦を食え」などと池田勇人が残した。

 さらに10年後昭和49年には田中角栄内閣が解散した。10年ごとに解散したね。あとおもしろいことに昭和29年の日本シリーズは中日対 巨人で中日が勝って、39年には阪神対巨人で阪神が勝った。49年にはまた中日対巨人で中日が勝っている10年ごとに巨人が負けていたんだよ。といってい た。

  「二人の美智子といえば「正田美智子」と「樺美智子」だね。正田美智子が今の皇后陛下の美智子様。家は日清製粉だった。テニスを通じて今の天皇と知り合ったんだよ。樺美智子は東大の学生。安保闘争で亡くなったんだ。
 

→「抹茶大好き」さんの感想:私の祖父は戦時中から戦争直後の記憶がはっきりしており、今回も高度経済成長の話を聞いたのに大半が戦争直後な話をしてくれました(笑)。

 けれど祖父な話は教科書からは知りうることのできない話ばかりで、小学生のころは長い話に飽きていた私ですが、これまで日本史を勉強してきて少しわかる様になって楽しく聞くことが出来ました。

 特に強く感じたのは教科書で扱っている歴史というものはある時代の一部であってすべてを表しているのではないことです。例えば「朝鮮戦争 の特需で日本経済が復活してきた」と学んだが、そのころ地方(山形)ではコメを闇市に出しに行っていたことを知った。身近な人からその当時の話を聞くこと によってよりイメージしやすくなるし、同時に起こっていた山形のことを知れてよかったです。

・1960年当時14歳で米沢にいた父方の祖母/2020年度後期・日本外交史「SKH」さん
・「六〇年安保」について
 安保反対と言っていたようですが、どうして反対と言ってたのかはわからなかったそうです。
 「二人の美智子」と言えば正田美智子さまと、樺美智子さんだと言っていました。ベストセラーとなった遺稿集は『人知れず微笑まん』であると言っていました。
・1960年当時の生活について
 1960年頃はテレビが一般的な家庭に無く、お金持ちの家だけにあり、テレビを見る機会が少ないため、遊びは外で缶蹴りや縄跳びなどを男女混ざってやっていたそうです。遊んだ後は上杉神社で杉の木の落ち葉拾いをして家に持ち帰り、親の手伝いをしたと言っていました。
  水に関しては、水は町内で3か所程あり、井戸水をくみ上げて自宅へ運び、水桶にためてそれを料理に使っていたそうです。お風呂は家に無かったため、父の会 社のお風呂に入っていたそうです。しかし父の会社から家まで歩くと冬は髪の毛が凍ってしまって大変だったと言っていました。
・高度経済成長時代について
 高度経済成長時代に関する思い出として、1960年頃に学校で、今から数年後には洗濯は自動になり、お米は電気で炊けるようになり、車を一人一つ使用するようになると習ったそうです。

 
→「SKH」さんの感想:  私の祖母は、1960年当時は14歳だったため、60年安保のことはあまり理解していなかったようで、60年安保についてはほとんど情報を聞き出すことが できませんでした。しかし、1960年当時の生活についてはたくさん教えてくれたので、その当時の生活状況を知ることができました。
  私の母は1973年生まれなので、1960年は母が生まれる13年前だということになります。母が生まれるたった13年前は、山形県米沢市では井戸水を 使っていたのかと思うと、たった13年でかなり技術が進歩したのだなと驚きました。また、現在は山形県で濡れたタオルを冬に振り回しても凍ることはありま せんが、祖母は髪の毛が凍ったそうなので、温暖化が影響しているのかなと思いました。
  また、祖母の家にはテレビが無かったそうで、60年安保についてあまりわかっていなかった祖母でさえ“二人の美智子”と遺稿集の名を知っていたので、その 情報はかなり大々的に報道されたのだなと思いました。このことから60年安保での樺美智子の死は、非常に大きな衝撃をもたらしたのだなと実感しました。


<沖縄にて>
 

・1960年当時は17歳で沖縄の県立高校に通っていた父方の祖母/2020年度後期・日本政治論「TRY」さん
  当時の思い出としては、その当時は、B円と呼ばれる沖縄県独自の通貨を使っていたそうである。バスで高校に通っており、弁当持参だったらしい。電気は中学 3年生の時に使えるようになったらしいが、水道もなく、テレビも冷蔵庫もガスも無かったそうである。なお、テレビは1964年から見られるようになったら しい。
 また、当時の実家では、農家をしていたらしく、牛も豚も鳥も飼っており、 学校が終われば手伝いなどをしていたらしい。当時はお金がなく、進学することが難しかったそうである。そのため、当時の沖縄県(当時はまだ琉球政府)は、 学生を国費留学生として支援し、留学生を派遣するという形で、県外の学校に進学させていたそうである。
  1970年代の高度成長の時代は、県外の大学を卒業して、薬剤師として県内の薬局で働いていたそうである。当時は薬局自体が少なかったらしく、大繁盛だったらしい。
  「ふたりの美智子」について聞いてみたところ、美智子妃殿下(正田美智子)しかわからないとのことだった。
 
→ 聞き取りをしてみての「TRY」さんの感想: B円というものがあったことを今回の聞き取り調査をして初めて知った。沖縄はずっと米ドルを使っていたと思っていたので、B円という通貨がその前に使われ ていたということは驚きだった。また、この聞き取りを機にB円について調べてみることもできた。B円は1958年に廃止されており、聞き取り内容とは若干 のずれがあったが、戦後まもない沖縄の通貨事情が知れたのは凄くいい機会になった。また、当時の沖縄県は、県外進学を留学としていたことから、いかに沖縄 が日本とは切り離された存在だったのかということも改めて知ることができた。


<運動を応援>

当時26歳 叔父/当時は川崎で鉄工所勤務/(2007年度後期・日本政治論「ちくわぶー」さん)
 当時の若い人々の多くは安保反対を示しており、叔父自身も、安保反対の気持ちがあったので、安保反対運動を応援していたということだった。

 仕事をしている間にも、デモ隊の行進の音がしばしば聞こえてくることがあり、演説が始まると、叔父を含め他の社員も、仕事の手を止めて演説を聴いていたという。

 映画『Always 三丁目の夕日』は、その当時の様子に等しいということだった。

 歌手の加藤登紀子の夫が安保闘争の反対運動に参加し、逮捕されたことがあった。

→「ちくわぶー」さんの感想:仕事の途中であっても、その手を止めて安保反対の演説に聴き入るほど、叔父にとってその当時“安保闘争”は身近で興味深いものであり、多くの人々は安保反対の立場にあったのだろうと思った。

 加藤登紀子さんについて知らなかったので調べてみたところ、私の知っているところではジブリの映画の『紅の豚』に(声で)出演されている方であった。彼女自身も、学生として反対運動に参加していたようだ。

※松本注:加藤登紀子さんについては、学生運動との関わりはその通りなのですが、時代が一つ違います。彼女の公式サイト(http://www.tokiko.com/)でのプロフィール紹介を見てもらうとお分かりのように、彼女のデビューは1965年(東大在学中)で、「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞したのは1971年のこと。つまり、後記で紹介する他の方々と同様に、よくある勘違いなのですが、彼女は六〇年安保ではなく七〇年安保の方のヒロインなのです。
<遠い話>
 ・夏の暑いときにラジオで(この頃はまだテレビがな い家がほとんどだったらしい)、「安保反対」と騒いでいるのを聞いた覚えがあるという。しかし、自分たちの生活と関係がないことなので、ごくたまに「えら い騒ぎだ」と話していた大人たちがいたほかは、話題になることもあまりなく、どこか別の国で起きているような感じだったらしい。

 『家の光』などという分厚い雑誌が配られ、「レジャーの時代」と言われた所得倍増(実り倍増)計画の頃の方がむしろ印象に残っているという。念 のために当時二十代だった他の二人にも聞いたが、同じようなことを言っていた(2006年度後期・アジア政治・外交論「葵の丸」さん)。

→「葵の丸」さんの感想:安保闘争は誰でも覚えていることだと思っていたので、あまり印象に残っていないと言われて驚いた。地方では、都市で起こっていることの受け止め方がいまと随分違い、あまり身近に感じられていなかったようだ。
※松本注:『家の光』(家の光協会)は初耳という人も多いでしょうが、1925(大正14)年創刊で、2005年には創刊80周年を迎えた(超)老舗雑誌です(月刊誌で、2005年当時は税込600円)。

 同様に戦前から刊行されている雑誌の『中央公論』や『文藝春秋』などと比べて知名度が低いのは、同誌が農家の主婦向けの雑誌だから。

 つまり「葵の丸」さんがインタビューした方は、当時は農家であった可能性が高いことになります(他の方も、インタビュー相手の当時の職業や、読んでいた雑誌や新聞を聞いてみると、より理解が深まりますよ)。

<二人の美智子>
1960年当時は30歳の祖母(栃木県烏山町在住/専業主婦)/2015年度後期・日本外交論/史「まる」さん
・「60年安保」当時は祖母の次女(私のおば)が小学校に入学するときで、私の父が生まれたばかりのころでした。また、高度経済成長時代には祖父が1964年の東京オリンピックで器械体操の審判を務めていました。

・「二人の美智子」について祖母は、一人の「美智子」は国会デモで亡くなった樺美智子、もう一人の「美智子」は美智子妃殿下と答えました。ただ、樺美智子の遺稿集の名前は知りませんでした(『人しれず微笑まん』)。

→「まる」さんの感想:祖父がオリンピックの審判を務めていたことは幼いころから耳にしていたがオリンピックで沸き立つ 五年前では安保闘争が行われたかと思うと日本国内の歴史も外交の歴史も大きく動いていると感じました。今年はリオデジャネイロ、2020年には再び東京で 夏季オリンピックが開催されることになっていますがその時には日本と世界との関係はどのように動くか知りたいと思いました。
当時30代前半 祖父/当時は福島県湖南村在住/タバコ農家/2008年度後期・日本外交論「はこてぃっしゅ」さん〕
 樺美智子は知らない。正田美智子(皇太子妃)は知っている。『人知れず微笑まん』は初耳である。
→「はこてぃっしゅ」さんの感想〕安保闘争については新聞などで知っていた程度。猪苗代湖の畔にある、あまり大きな村でなかったためか運動そのものもなかった様子。

 正田美智子についても名前を知っている程度で、不鮮明な記憶だが「めでたい」というフレーズは残っているらしい。農業に従事していた周辺の人たちもそんな認識だったと語っているので、湖南村周辺ではこのくらいの認識が一般水準だったのかと思っている。

 一方で、どぶろくの生成法は詳細を記憶していたため老化による記憶力の低下とは言い難いと感じる。

当時25歳 祖母/当時は福島県湖南村/タバコ農家/2008年度後期・日本外交論「はこてぃっしゅ」さん〕
 樺美智子は知らない。正田美智子は知っているがどういう人物か思い出せない。『人知れず微笑まん』も知らない。
 
→「はこてぃっしゅ」さんの感想〕安保闘争については、そういうことがあったとしか記憶にない。

 (以前オイルショックについて聞き取りを行った時とほぼ同じ感触なので、都心から離れると世事に疎くなるものなのかも知れない。でも、タバコ編み については手順の詳細も記憶していたので、日々の生活に関わりの少ない事柄は興味が無いのか、忘れる傾向にあるのかもしれないと思った。

・1960年当時は20歳前後だった祖父母/2020年度後期・日本政治論「TKS」さん
 
 1960年当時は祖父は20歳で名古屋の町工場で働いていた。祖母は長野県の高校に通っていた。

・六〇年安保当時の思い出

   祖父 「参加することはなかったが、内閣が倒れればいいと思っていた」
   祖母 「田舎だったので直接触れることはなかった。学生が闘争しとるわあくらいの気持ちだった」
 
 ・高度経済成長期思い出 (この間に祖父母が結婚し長野に居住。子供もいた。)
    祖父 「地元にスキー場ができてものすごく儲かった。一万円札がダンボール何箱にもいっぱいになっていた。朝早くスキー場に行って働いて手当などももらって家庭が潤った」
    祖母 「スキー場にくるお客さんがすごかった。家庭が潤い毎年家族旅行に行っていた」
 
・1960年当時の“ふたりのみちこ”について
 祖父 「二人とも知っている。樺さんは運動で亡くなったよね? 本のタイトルは知らない。」
 祖母 「二人とも知っている。本のことは知らなかった。みっちーブームがあってヘアスタイルがはやった。一般人から皇室に入ったこともあってかな」
→「TKS」さんの感想: 田舎であったということ、二人とも大学生ではなかったことからか「六〇年安保闘争」自体は耳にした程度であるようだった。しかし、祖父は政治に関心が強 かったようで思想というか志的なものは当時の学生に近いところがあったのだと話を聞いていて思った。2人とも樺美智子さんを知っていたことが意外だった。 運動不参加だったし田舎だったのに…! 美智子さんのヘアスタイルが流行るのは人気の高さの象徴だなあと思った。
  高度経済成長期のスキー場の話は自分がそのスキー場でアルペンスキーの練習をしていたこともあって小さいころから「昔はすごかった」という話を耳にしてい た。今は平日はゲレンデ独り占めできてしまうような廃れ具合だが、当時は駐車場があぶれ路駐の列ができていたとか、一本リフトに乗るのに何時間待つとか噂 程度に聞いていた話が現実だったのだと驚いた。
当時は高校生 祖父/2018年度後期・日本外交史「ニャイキ」さん
・60年安保について
 岸首相が日本とアメリカとの安全保障条約を改定しようとして、抗議デモや座り込みを毎日のようにしていた。内容は覚えていないが大学生がデモや集会をしていた記憶がある。
・二人の美智子とは
 一人は今の皇后美智子様でしょう、もう一人は分からないとのこと。
 安保闘争のデモで亡くなった東大生の、樺美智子を知っているか聞いたところ、デモで亡くなった人ががいたようだがその人だとは知らないとのこと。樺美智子の遺稿集についても知らなかった。
・高度経済成長について
 東京オリンピック開催に向けて景気が良かった。白黒テレビがカラーテレビに買い替えられた。
 高度経済成長のため公害が多々発生した。光化学スモッグとか水俣病などはこの時期の公害である。
.・インタビューをしてみての感想
 日本が戦争に台けてアメリカの言いなりになっていたのが、高度経済成長により日本は自立していった、そのため安全保障条約の改定に反発したのではないか。〔※松本注:この点は「70年安保闘争」についてかも。〕 特に、将来を見据え学生が抗議したのではないかと考える。
 高度経済成長により公害が発生したことは、今の中国と同じ状態だと思った。
当時7歳くらい 父/2006年度後期・アジア政治・外交論「ちょ」さん
 もうほとんど記憶がない(1970年頃の安保の記憶しかない)が、1960年代のイメージとしては、「アメリカの押しつけからの解放を求める動き。自主防衛、自立を目指す」というものを持っている。
→「ちょ」さんの感想:「樺美智子」と「正田美智子」という答えがすらっと出てきたところを見ると、当時の「二人の美智子」は日本へ大きな影響を与えていたのだなと思う。
当時36歳 祖母/2006年度後期・アジア政治・外交論「ぷよ」さん
 地方に住んでいるし、テレビもなかったらしいので、よく知らないようだった。美智子様については、皇室の番組が好きなので、詳しかった。
→「ぷよ」さんの感想:なんでお年寄りは皇室の番組が好きなのだろうかと思った。昔の人にとっては、“天皇”という存在がそれほどすごかったのだろうと思う。
当時42歳 祖母/2006年度後期・アジア政治・外交論「メイ」さん
 祖母は安保闘争について詳しいことは分からないと言っていましたが、樺美智子という人が亡くなったことは知っていました。当時は祖母の家にはテレビはなく、新聞でとても大きなニュースになっていたそうです。
→「メイ」さんの感想:祖母に話を聞いてみて、祖母にとってはあまり関係のないニュースだったのかなと感じました。当時は今ほど情報を知る手段も発達していないし、自分の生活で精一杯だったのではないかと思います。
 ・当時32歳 祖母/2006年度後期・アジア政治・外交論「ジャスミン」さん
 けっこう昔のことなので、あまり詳しいことは覚えていないそうですが、学生運動がすごかったのと、大学生の樺美智子という女性が亡くなって大騒ぎになったということは記憶に残っているそうです。遺稿集の書名も知っていました。
→「ジャスミン」さんの感想:祖母はこの頃、非常に忙しい時期というか大変な時期だったらしく、事件についてあまりよく覚えていなかったのが少し残念でした。
当時30歳 祖父/2006年度後期・アジア政治・外交論「キャラメル」さん
 知り合いに投石のバイトに行った人がいたらしいです。東京では大学生のほかにもいろいろな人が活動に参加したそうです。樺美智子さんはきれいな人だったので、彼女が亡くなったことはマスコミで取り上げられたそうです。
→「キャラメル」さんの感想:「もう一人の美智子」を調べて、漢字が全く同じで二人とも当時の話題の人となっていることを初めて知った。女性もかなり激しく活動をし、運動の最前線にいたことがわかって興味深かったが、死者を出してしまったことはとても残念であったと思う。
<子ども心に>
当時11歳 小学生 富山県朝日町在住 友人の父/2010年度後期日本政治論「ネコ」さん〕
 1960年安保の当時は子どもだったのでよく分からなかったが、アメリカと日本との関係は日本が敗戦国であるという立場はわかっていた。反対も多かった。1960年安保の詳しい内容については後々知った。
→「ネコ」さんの感想〕当時子どもだったということで、状況が分からなくてもしょうがないかと思った。自分もその年齢ならば、理解できないだろう。しかし反対も多かったという記憶があるということで、やはり反対派の反発もすごかったのだろう。
当時祖母31歳 父6歳ぐらい/2006年度後期・アジア政治・外交論「OPEO」さん
 なぜ鉄パイプを持って(武装をして)国会議事堂を取り囲んでいるのかよく分からず、デモ行進や衝突などには怖いなと思った(祖 母)。当時の人々はアメリカが日本を守ってくれるものだとアメリカに依存しきり、「自国による防衛」という考えは全く持っていなかったのではないか (父)。
→「OPEO」さんの感想:当時を生きている人にとって、逆にその当時というのは、その大事件についての意識があまり高くないのだなと感じました。おそらく私もですが、数年後になり、やっと「客観的」に見つめられるのかなと思いました。
 ・当時10歳くらい 父/2006年度後期・アジア政治・外交論「ロビン」さん
 「安保反対」と国会議事堂に入っていった。たくさんの警官と国民が衝突していて、とても怖い光景であった。これがあった年、父はまだ子どもであったが、とても強い印象が残っていると言っていました。
→「ロビン」さんの感想:今まではこの安保闘争は遠い昔のことであったというような気がしていました。しかし父の話を聞いて、父が生きているときのことで、昔のことではないと実感した。
 ・当時10歳 おじ/2006年度後期・アジア政治・外交論「エルモ」さん
 デモ隊を毎日のように見た。若い人が多かった。激しかった。なんとなく暴力的な印象だった。警備隊と衝突していた。けが人も出た。
→「エルモ」さんの感想:平和を得る運動に、当時の学生が積極的に参加していた事実を知り驚きました。今より世の中のことについての学生の関心が明らかに高いと思いました。
<祖父上のまとめ>
当時29歳 祖父/2006年度後期・アジア政治・外交論「わーい」さん
 祖父に手紙で聞いてみました。そこで送ってもらった内容です。

 戦後史上、記憶に鮮明に残る闘争であった。

 2カ月にもわたり、全国各地で580万人にも及ぶデモ・ストの実力行使は特記されるものだと思う。

 6月15日、国会周辺のデモ隊に右翼の殴り込み襲撃があり(警官隊の援護集団)、それを機に全学連が国会構内に突入(現在は簡単には構内 へ乱入できないよう堅固な柵があるが、当時は生垣だった)。警官隊と乱闘となった。その場における犠牲者が東京大学生樺美智子さんである。

  この事件を機に、無関心だった国民も現政権岸信介内閣と官憲に反発する機運が噴火し、決死の反政府運動になっていった。安保条約自然成立後、岸信介が首相の座を自ら降りたのは、国民の反発があまりに大きかったからであろう。

 この闘争の実力行使の中心となったのは、組織労働組合員と全学連の学生だったが、群馬県教職員組合員だったある女性教師は、樺 美智子さん死亡の翌16日のデモ参加要請を受けて、あれこれ葛藤の末、「安保に反対し、たとえ死んでも悔いはない」と覚悟のデモ参加だったと述べている。

 国民の反政府運動のエネルギーの背景を項目にすると次の数点であろう。

 (1) 首相岸信介へのアレルギー
 岸信介は戦中の閣僚であり、中国東北部「満州」支配の実力者だったことから、再軍備論者と見られ、軍備拡張の道を進むと思われていた。

 (2) 世界一強大な軍備を持つ米国との対等な協力者たる条約とはなりえないと国民は考えていたこと。

 (3) 米国の日本占領と同時に、日本全土を米軍基地とし、基地に日本の主権が及ばず、植民地同様の実態を招く政府首脳への憤懣が蓄積されていたこと。

 (4) 米ソの対立は大戦終結後年々激化の方向に進んでいた。そのいずれかに組みするのは、長い戦争を終えたばかりの国民感情としてなじめなかったこと。

→「わーい」さんの感想:私にとっては、生まれる前の話であるのに、祖父が懐かしそうに話していたのは印象的でした。しかも、すごく詳しく て驚きました。質問したときは、樺美智子さんの遺稿集は分からないとのことでしたが(当時の新潟県の地方都市の出版事情と本の流通は悪く、読みたい図書は 簡単には手に入りにくかったそうです)、返事の手紙と共に、『人しれず微笑まん』が送られてきました。わざわざ探して買ってくれたようです。やはり、生の 声は違うなあと思いました。
 

※松本注:『人しれず微笑まん:樺美智子遺稿集』(1960年)はいまも三一書房から税込735円で出てます(三一新書257)。ロングセラーです。山大図書館でも新書コーナーに所蔵しました(請求記号「289.1//ヒトシ」)。同級生の回想記『哀惜の樺美智子』も刊行されている。
<「六〇年安保」後>
当時13歳 知人/2006年度後期・アジア政治・外交論「まんと」さん
 美智子様のご結婚には当時歓迎ムードが高まっていたという。学生運動は授業料値上げと安保条約に反対して起こったようだ。東京大学の安田講堂に立て籠もり、6大学が集合していた。警官隊に水をかけられて終わったという。
 →「まんと」さんの感想:何年も前のことなのに、よく覚えていらっしゃるなと思った。
※松本注:東大の「安田講堂」を学生が封鎖・占拠してい たのが機動隊8500人によって解除・排除され、374人が逮捕されたのは1969年1月のこと。なので、「まんと」さんの知人が見ていた東大の学生運動 の背景にあるのは「60年安保闘争」ではなく「70年安保」、つまり60年に締結した安保条約が10年間の期限を迎えて自動延長するのを阻止しようという 安保反対運動です。それら闘争の主力が「全共闘」です。
現在58歳ぐらい 先生/2006年度後期アジア政治・外交論「Euphキャッチャー」さん
 前線で活動していたらしく、機動隊と何度か接触したそうです。スクラムを組みながら女性を守った話や、機動隊からのジュラルミンの盾の水平打ちなど痛い思いをしたことや、デッキブラシを使って戦ったこともあるなど、当時の生々しい戦歴等を語ってくれました。 
→「Euphキャッチャー」さんの感想:先生がいきいきと学生時代を語ってくれて、楽しそうでした。
※松本注:現在のお歳からすると、上記の「まんと」さんと同様の「全共闘」「70年安保」時代の体験かもしれない。
当時8歳くらい/父/2006年度後期・アジア政治・外交論「どんぐり」さん
 当時、小学生のため覚えていませんでした。
→「どんぐり」さんの感想:両親では若すぎて詳しいことは聞けませんでしたが、私は以前読んだ『二十歳の原点』(バイト先の店長から本をいただきました)で少し知っていました。
※松本注:その『二十歳の原点』の背景にあるのは「60年安保」ではなく「70年安保」そして「全共闘」です。同書は高野悦子著、1971年・新潮社刊で、『人しれず微笑まん』から一世代あとの「全共闘」世代のベストセラーなのです(今も新潮文庫版が 入手可能、420円。他社による新装版もあり。両者とも山大図所蔵あり)。この『二十歳の原点』も実は遺稿集で、著者は1969年の立命館大学3年生(文学部史学科日本史専攻)当時、20歳で自殺しました。

《以上です》