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「全共闘/東大闘争/万博」

文責:松本邦彦
(2011年02月14日に増築/最終更新時:2022年03月24日(木)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。

聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

〔目次〕
当時の大学生> <隣の大学生> <見ていた><東北の大学で> <1970年大阪万博> <記憶にない> <遠くのこと><成田闘争><ベトナム戦争
筆名の年度別・五十音順さくいん(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が
      違うかも…)
2021年度
ISY
2020年度
AEM」「KDK」「KUK」「OAA」「YKT
2015年度
フラットウォーター
2014年度後期
ラーメンマン
2012年度後期
波乗りうさぎ
2011年度後期
ジェシー」「みずたま
2010年度後期
いちごけーき」「おせん」「ニュートン」「ネコ」「ぷにたま」「まめじ()」


<当時の大学生>
当時は22歳前後 山形市在住 会社員 母/2010年度後期日本政治論「おせん」さん〕
 大学闘争が盛り上がっていたちょうどその頃、母の弟は東京の法政大学に在学中であった。テレビニュースやラジオで大学闘争を見 聞きした母の母(私の祖母)は、すぐさま母の弟に電話をした。そして「今、テレビで大学闘争あてしったげど、あんたの大学は大丈夫なんだが!? あんたも 混ざってるんだが!?」と安否確認をした。母の弟はほとんど大学闘争に興味を持たず、参加もしていなかった。しかし友人数名は参加していた。
→「おせん」さんの感想〕大学闘争のビデオを見たり、テキストを読んだら「数十年前、こんなことがあったんだ〜」と少々他人事 のように感じていた部分があったが、母から上記のような事を聞いて、当時山形にいる人でも他人事ではなかったんだと知った。考えてみれば子どもが一人暮ら しをしている近辺で、あのような大学生が主体となる「戦い」が起こっていたら、どこの親でも心配するだろうと考え直すことができた。
当時は19歳 京都在住 友人の父/2010年度後期日本政治論「ネコ」さん〕
 当時はリアルタイムで大学生で、経営学を学んでいた。通っていた大学は全共闘に参加すると退学処分だったので、自分も周りもほ とんど変化無く過ごしていた。近くの大学では激しかった。ごく一部、参加した人もいたが、実際に退学になっていた。本気で日本を変えようとしていた人はほ んの一部で、参加していた人のほとんどは発散の場にしていたと思う。四年生になると就活にすぐ切り替えていた。

 下宿を引き払って実家に帰る日に、あさま山荘事件のテレビ中継をしていて、放水や鉄球の映像を覚えている(〔※松本注:「あさま山荘事件」は1972年2月の事件〕。当時は興味がなかったが、自然と目に入ってきた。

→「ネコ」さんの感想〕全共闘当時、大学生であった友人の父だが、出来事を客観的にとらえているようだった。「本気で日本を変えようとしていた人は,ほんの一部で、参加していたほとんどの人は発散の場にしていた」という言葉は、現実味があった。
1968年当時は19歳、東京在住/私の父/2010年度後期日本政治論「まめじ」さん〕
自分でもよく分からなかったが、安保反対と言って学生たちがデモをやっていた。クラスでも授業ボイコットが勝手に決められるとい う状態だった。自分はデモには参加していなかったが、授業には参加していた。授業料を払っているのに授業をボイコットしてどうするんだろうという理由だっ た。
→「まめじ」さんの感想〕父がデモに参加していなかったのは、なんだか納得だった。ど田舎から東京に出て行った父には、授業だけで精一杯だったのだろう。授業料を払っているのにもったいないという理由には笑ってしまったが、確かに一理ある。
<隣の大学生>
当時12歳、小学生の母/宮城県白石市在住/2011年度後期・日本政治論「ジェシー」さん〕
 近所に東北大生の人がいて、学生運動に巻き込まれないように、早く帰ってきていた。
→「ジェシー」さんの感想〕当時の学生運動の映像を見ると、かなり大勢のひとが参加していたように見えたが、こうゆう人もいたの であろう。興味本位で、学生運動に参加してみたかったという気持ちもあるが、実際就職に影響も出るし、難しい。しかし、今の大学生と昔の大学生は、どう違 うのか、それとも、あまり変わらないのか、非常に気になるところである。
<見ていた>
1968年当時16歳/当時は神奈川県川崎市在住で、理容師をめざし修業中2010年度後期・日本政治論「いちごけーき」さん
 大学闘争については、新宿駅での演説を目の当たりにしていた。警察の機動隊が三浦半島(神奈川県の先端)で訓練していたことも 会話に挙げ、「昨日まで肩組んで酒を飲んでいた相手(大学生)が、今日は反対側にいる(卒業を境に敵と味方という立場が変わる)」と、大学生が置かれてい た複雑な世界を話してくれた。

 大阪万博にも足を運んでおり、とにかく人がたくさんいたそうだ。そして洋服のカジュアルスタイルの登場はこの時か?と言っていた(従来であれば 公共の場に行く時は正装)。世界のファッションを一堂に会し「世界の人はこんなものを着ているのかと、みんなが知ったとき」と父は形容していた。

 万博には新幹線で行ったそうで、夢の超特急にビュッフェがあり感動したそうだ。これまでの食堂車とは違う軽食が取れ、売店もあったようである。初期の携帯電話も登場し、日本の技術革新を窺わせる聞き取りになった。

→「いちごけーき」さんの感想〕70年安保の時代、私の父は大学生の演説を聞いていたのだ。《東大全共闘》の授業でビデ オを見たが、まさにあの場所にいて見ていたことに私は驚いた。社会に対する不満と、その社会を構成する自分。このアンビバレントな状態と真摯に向き合って いた大学生たちはどんなに苦痛だったのだろうか。父よりも3つか4つ上の人たちが置かれていた状況なだけに、どこかやり切れなさが残った。

 昨年(2010年)は上海万博が開催されたが、通信技術が発達する前の大阪万博は、多くの人に衝撃を与えたのだろう。日本人が世界を身近に感じ始めたのはこの頃からなのだろうかと疑問に感じた。

<東北の大学で>
・1968年当時24歳 祖母の弟/山形市在住・警察官/2011年度後期・日本政治論「みずたま」さん〕
 山形では山形大学,東北では東北大学で学生運動があったと聞いた。

 皆が明確な思想・考えを持って参加していたというわけではなく,うさばらしや誘われて参加する人も少なくなかった。

 共産主義のもとでは,自衛官いじめがあり,自衛官は制服を着て外を出歩けなかったという。

→聞き取りしてみての「みずたま」さんの感想〕
 ひとことに学生運動といっても,学生の意思や行動は様々あったようだ。

 今の大学生は「就職」に思いの矛先を向けているように感じるが,“就職難”という状況がなかった場合,大学生たちはどのような主義主張を示し,存在意義を見出そうとしたのであろうと考えた。

・最上で働いていた祖母/2020年度後期・日本政治論「KDK」さん
 私は授業の動画で見た東大闘争の光景を見て地方では東大で起こったような大学生による政治活動の過激化は起こっていたのかが気になり、当時大学生であった人たちと年齢が近かった祖母に当時の地方への影響について聞いてみることにした。
 
  祖母は、現在は80代で当時は社会人として働いていた。祖母に当時の地方での政治活動の過激化について聞いてみたところ、意外にも祖母が住んでいた山形県 の最上地域では近くの大学が政治活動の過程で暴動を起こしたという話はなく、東大闘争が起こっていたであろう期間中も山形県はいたって普通の日常であった と言っていた。そもそも大学生の政治活動がそのような暴徒化しているという事実はテレビで東大闘争のニュースをやっている時に初めて知ったと言っていたの で、地方によって東大闘争のような過激な政治活動の影響はまちまちであると思われる。
→ 「KDK」さんの感想: 私は祖母の話を聞いて授業では東大闘争に影響を受けた地方の大学生も似たような政治活動を起こしているとの話も聞いていたので、 自分たちの県でも東大で起こっていたような出来事でなくともそれに類似した活動が起こっていたのかなと思っていたので、普通の生活を送っていたという話を 聞いて少し拍子抜けしたような感じだった。同時に当時の地方では政治活動があまり頻繁に起こっていなかったことから、地方の学生はまだ、政治についての意 識が低かったのだなと感じた。

 授業でも触れていたが東大で暴動を起こした人たちの中でも本当に日本をいい方向へ変えようと高い意識をもって活動 していた人たちはごく一部で、他の大多数の生徒は日ごろの生活へのうっぷん晴らしや他の人がやっていたからそれに同調して暴動に加わっていたなど政治とは まったく無関係な理由やそもそもちゃんとした動機もない状態で暴動に参加している人がほとんどであった事実を踏まえると本当に政治を変えたくて暴動を起こ した人たちは世間の関心を向けることはできたが、それはいい意味でのものではなく肝心の政治の腐敗もこれといった抑制ができていなかったため、報われない なと感じた。

 現在の若者は政治について関心を持っている人の割合が当時の若者よりも少なくなっていると感じるため、当時とは違うやり方で若者が政治に対して意見を積極的にぶつけていかなくては政治の腐敗はどんどん加速していくなと思った。

 また、疑問点としては政治の中心である東京と地方では政治の関心に差があるとはいえ、なぜここまでの政治へ対する意識の差が生じてしまうのかなと思った


<1970年大阪万博>

・当時は酒田在住の祖父母/2020年度後期・日本政治論「KUK」さん
 
<1970年当時は28歳だった母方の祖母>
 当時は、既に結婚しており、酒田市の若宮町に住み、専業主婦をしていた。

 東大闘争については、テレビで見ていたが、悪い印象があったというだけで、そこまで興味はなかった。

 大阪万博については、夫(調査者から見て母方の祖父)が会社の人と共に行っており、自身はテレビで見ていた。周辺の人は、当時、伊勢神宮を一年に一回ほど参拝していた。

<1970年当時は33歳だった父方の祖父と、27歳だった父方の祖母>
  当時は、結婚しており、職業も住んでいる場所も同じだった。

 東大闘争について、祖父は、とにかく忙しい上に、見たくもなかったため、新聞などで知ってはいたが、テレビでは見ていなかった。祖母も子育てでこの頃はテレビもほとんど見ていなかったため、東大闘争についても見ていなかった。

 大 阪万博には、祖父が新堀から200人ほどの集団で見に行った。一晩かかって寝台列車と途中から新幹線で行っており、「太陽の塔」や「月の石」を見てきた。 万博会場には、大勢の人が集まり、来るまで相当の金がかかったのにも関わらず、30分見るのに半日ほど並び、背の小さい人は何も見えないほどであった。祖 母は大阪万博については、テレビで見ていた。

→聞き取りを終えての「KUK」さんの感想: 東大闘争についても、安保闘争と同様に、山形の中でもかなり田舎の方に住んでいたこともあってか、祖母、祖父ともども興味がなかったらしく、祖父に至って は、見たくもないという態度であった。日本全国が衝撃を受けた事件だったとはいえ、仕事で忙しかった人や田舎に住んでいた人は、関心が無かった事件だった のだろうなと感じた。一方で、そういった人でも、アメリカの9.11テロは、同じ日本でもないアメリカで起こった事件なのに印象強いものだったと言うの が、何とも不思議なものだと思った。

 大阪万博について、祖父は集団で、かなりの金をかけて丸一日かかって現地に赴き、30分ほどしか見られなかったのは、多くの人にとって割に合わないものだったのではないかなと感じたが、元々美術品好きの祖父からは、もったいないことをしたという感じは伝わらなかった。

 父 方の祖父と祖母は、この頃カラーテレビを買っていたが、カラーテレビもそんなに見ていなかったため、自分から見れば、せっかく買ったのにもったいないと考 えるのだが、当時は、多くの人が裕福だったため、後先はあまり考えず消費できていた時代だったのかもしれないと思った。


1970年大阪万博当時は30歳の祖父(山形県西村山郡西川町在住で森林組合勤務(冬季は出稼ぎ)/2015年度後期・日本政治論「フラットウォーター」さん

・全共闘はテレビや新聞の報道で見ていた程度で、大学での暴動という印象のみで、経緯については分からなかったという。当時は高校進学ですら近所では多くなかったらしい。

・1970年の大阪万博については、同じ地区に住み、よく実家に来る近所のおじさんが出稼ぎに行っていたという。本人の出稼ぎでは、東京に限らず、東北地方のトンネル工事や発電所工事にも行ったそうです。

→「フラットウォーター」さんの感想:中卒後の就職が当たり前だったという時代にとって、大学生はどのような存在であっ たのかとても気になった。また、現在は7割と言われている中卒就職者の離職率はどれくらいであったのか。当時の15,6歳の心身は今の高校一年生と変わり あるのか、大変興味深い。近所の陽気なおじさんが大阪万博に出稼ぎに行っていたのは初耳であった。気さくで面倒見の良い彼の性格は若い頃の大阪での経験に よって培われたのかもしれないと感じた。
当時18歳/私の母/2010年度後期日本政治論「まめじ」さん〕
「太陽の塔」の不気味さしか印象に残っていない。夕暮れ時、森の中から顔を出している太陽の塔を見るたび、不安な気持ちになった。岡本太郎は世界的に有名な芸術家であるのに、彼の言う「芸術は爆発だ」が自分には分からず、失望して帰ってきたのを覚えている。
→「まめじ」さんの感想〕私も母と同様、岡本太郎の芸術が今いちよく分からないので、共感した。奇抜で強く印象には残るが、凡人 にはちょっと前衛的すぎて難しい。以前、テレビで岡本太郎のデザインした椅子が出ていた。その名も“座ることを拒否する椅子”だ。芸術とは時に不可解だ。
・当時12才、父/青森県十和田市在住(2012年度後期・日本政治論「波乗りうさぎ」さん)
 東大闘争については、一日遅れでテレビで見たそうです。新聞にも大きく載っていたそうです。ただ当時は、その活動が何のためにおこなわれているのか分からないまま見ていたと言っていました。

 万博に関しては、歩けないくらいの人混みだったという記憶があるそうです。テレビで、新しいロボットなどの映像が流れたときは興奮したみたいです。父のお兄さんと、これからの未来について語ったことがあると言っていました。

→「波乗りうさぎ」さんの感想:東大闘争など、映像を見ると、過激だなと思いました。ですので、当時の父が見たときには衝撃が強かったりしたのかなと思いました。乱闘のように見えたとも言っていました。

 万博に関しては、子供にとって夢や希望を与えるものだったのかなと思いました。父は、あれから30年くらいたって仕事のために大阪に行った際に 「太陽の塔」の写真を撮ってきたと携帯で見せてくれました。その時の父の顔はなんだかとても嬉しそうでした。時をこえてもなお、夢を与え続ける存在なんだ なと思いました。

・当時11歳 父/山形県在住(2010年度後期・日本政治論「ぷにたま」さん)
 大阪万博はテレビで見ていた。大学闘争についての記憶は、当時は小学生だったということもあって、よく覚えていないようだった。
→「ぷにたま」さんの感想〕大阪万博についてもっと印象に残っているかと思ったら、月の石や太陽の塔など私でも知っているようなことと大体同じような印象しかないようだったので、ちょっと残念だった。
・1969年当時は9歳で小学生だった父、鶴岡市在住/2020年度後期・日本政治論「AEM」さん
 大阪万博については周りも本人もあまり興味はなかったが、父のクラスの同級生には家族で大阪万博に行った、という人もいたらしい。
 
→ 「AEM」さんの感想:大阪万博は私でも名前が知っているくらい有名なものだから、当時を生きていた人はもっと詳しいのだろうと勝手に予想していたが、山 形と大阪では遠すぎてあまり関心がわかなかったのだろうと感じた。交通機関が今ほど発達していなかった当時では、大阪は今よりもずっと遠いところにあるも のだ、という認識が強かったのかもしれない。
<記憶にない>
当時40歳前後宮城県利府町在住/私の祖母/2010年度後期「ニュートン」さん〕
大学闘争については一切記憶にないとのことだった。私が説明してもよく理解していない様子だった。1970年万博については、記憶には多少あるようだが、特に思い入れはなく、自分とは関係のないことだと認識していたようだ。
→「ニュートン」さんの感想〕大学闘争に対する答えは自分の予想通りだった。当時の学生や、関係者にとっては重要なことだったの かもしれないが、うちのような家族にとっては興味のないことだろうなとは思っていた。祖母に「それは何?」と逆に聞かれたので、少し説明したら首を傾げて いた。この問題の難しさを改めて感じさせられる祖母の反応だった。
<遠くのこと>
・当時6歳だった青森県在住の母(2014年度後期・日本政治論「ラーメンマン」さん)
 当時の母は弱冠6歳で、しかも本州の北限に住んでいたので、バリケードも三波春夫の歌も、テレビで見るだけの遠い異国の地の出来事のようでしたとのこと。
→「ラーメンマン」さんの感想〕あまり参考になりませんでした。講義の宿題だった他の当時の記憶を家族に聞きましたが、よく覚えていなかったりと、とても書ける内容ではありませんでした。
<成田闘争>
・1970年当時30歳で仙台市に住んでいた祖母/2020年度後期・日本政治論「YKT」さん
 祖母の夫、つまり私の祖父は警察官だったが、学生運動が活発だった1970年代では仙台から東京に招集されることもあったという。そのなかでも大きな出来事は、成田紛争だったと聞いた。

  成田紛争とは、1970年代後半から1980年代にかけて起こった新東京国際空港、現在の成田国際空港の建設に反対する人々と警察が激しく衝突した一連の 出来事である。祖父は機動隊として出張し、およそ1ヶ月の間帰ってこなかったという。また、この時代ではテレビでもよく学生運動についての報道がされてい て、あさま山荘事件の様子が長時間報道されていたときによく見ていたという。

→ 「YKT」さんの感想:祖父が警察官として活躍している姿を見たことが無かったので、学生運動の全盛期に活躍していたことを初めて知った。できれば祖父の 話も聞いてみたかったと思った。講義のなかでは行動を起こしている学生たちが注目されて取り上げられがちだが、それと衝突する警察部隊の方々がどのような 心境にあったのかということについてもより深く知りたいと思った。
 ま た、話を聞いていると当時は東大全共闘をはじめとする学生運動に日本中の注目が集まっていたということが伝わってきた。学生だけでなく、他の国民の中にも 政治の在り方などに関心があった人が多く、行動を起こそうという人も少なからず居たのではないかと思った。当時の報道を見た人や、実際の学生運動に関わっ た人達の考え方は、1970年代〜1980年代の出来事を捉える上で重要なものなのだと感じた。
 
<ベトナム戦争>
 
・1970年当時は22歳で大学生だった父方の祖母の弟(舟形出身)/2020年度後期・日本外交史「OAA」さん
 「六〇年安保」当時はまだ小学六年生だったということで、六十年安保についての記憶はあまりないそうだ。唯一ある記憶が、通学路の途中にあった電柱に「安保反対」と書かれたポスターが貼っており、それは組合に加盟していた教師が貼ったものであったそうだ。

 その後の「七〇年安保」についてはよく覚えているそうで、安保運動と、同時に盛んだった大学民主化運動について良く話してくれた。当時、ベトナム戦争中でアメリカが日本の基地からベトナムに空爆をしに行ったり、自作自演を行ったりしたこと〔※松本注:自作自演とは「トンキン湾事件」を指すか。〕に対してアメリカへ不信感を抱いていたそうだ。アメリカがアジアを支配するために安保が利用されるのではと懸念し、安保がいけないのだという結論に至ったということだ。

 東大での安田講堂事件があった当時、現在の筑波大の前身であった大学〔※松本注:東京都文京区にあった東京教育大学のことでしょう。〕の近くにいたらしい。本人も学生運動に参加したそうで、角材やコカ・コーラの瓶をもった学生が襲ってきたり、機動隊と学生が一緒にタバコを吸ったりする姿を見たそうだ。フランスデモという、一列に手をつないで行進するというデモも行ったそうだ。

 高度経済成長が始まって賃金も上がっていくにつれ学生運動も下火になり、多くの人がまっとうに生きることにしたそうだ。

→ 聞き取りを行ってみての「OAA」さんの感想:六十年安保についての話より、七十年安保と、同時に盛んにおこなわれた学生運動についての自らの体験談を話 してくれた。今の時代に比べ、若者の政治に対する熱意と行動力がすごい時代だなと思った。当時は貧富の差が激しかったため、大学の授業料の値上げが死活問 題であったり、貧しいものへの差別をなくそうとしたりする思いが切実なもので、それゆえ過激な行動に走ったのだろうなと思った。機動隊が学生と一緒にタバ コを吸っていたというエピソードを聞いて、色々なことに緩く大らかな昭和らしい話だなと思った。
・1955年生まれで、、福島市育ちの人(私の高校時代の社会科の先生)(2021年度後期・日本政治論「ISY」さん)
 1960年代は小学生から中学生だった。小学生の時はよく「安保闘争ごっこ」みたいなことをしていた。「安保反対、安保反対」と言いつつ、友だちと肩を組んで、デモ行進ごっこをするものだった。

 最も印象に残っているのは何といっても1969年の東大闘争で、中学の教員たちがテレビ中継を見て、「ヤレー、ヤレーやっちまえー」と機動隊を応援していた風景が強烈に残っている。中学の社会科教員が、その当時宿題を忘れた生徒に「このベトコン、ベトコン」と言って、竹の棒で頭をコツンコツンと叩いていたことも、反面教師の姿として記憶に残っている。

 高度経済成長のスタートラインの1955年生まれで、池田内閣の所得倍増計画路線にのっかる形で育った。例えば、父親がボーナスをもらうごとに、電気製品などの耐久消費財が増えていくといった具合。また、外にご飯を食べに行くとか、小学校高学年になると、夏休みなどにはわずかだが毎日10円程度(今の貨幣価値なら100円くらい)をもらって、買い食いをすることもあった。とにかく、政治的にも経済的にもイケイケドンドンの時代だった。

 高校生になると、友人がベトナム戦争反対のデモに、授業をサボって参加しに行って得意になったり、沖縄返還問題をなんと生徒会主催の縦割りホームルームで議論したりした。その議論の時、先生は入学したばかりの一年生で、先輩方からこの問題についてほとんど何も知らないことを叱咤された記憶があるそう。自分はどちらかというと政治に関心のない「ノンポリ」だったが、授業をサボって映画を見に行ったりはしていた。

・「二人の美智子」について:二人とも知っている。今の上皇妃さまの美智子さまはともかく、機動隊に虐殺された樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑まん』は持っている。ただ、この本は、大学生になってから古本屋で購入した。当時の同級生は高野悦子『二十歳の原点』を好んで読んでいた。学生運動をテーマにしたアメリカ映画『いちご白書』なんかもリバイバル上映で観た記憶がある。
 

→聞き取りをしての「ISY」さんの感想:東大闘争の際に実際に教師たちが機動隊を応援する姿を見て、それが中学生の記憶に強烈に残るレベルだったということから、かなり激しいものだったと推測した。講義で見た映像でもかなりインパクトがあったので、当事者の話を聞くとまた違った見方もできてとても興味深かった。

《以上です》