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「敗戦前後」

文責:松本邦彦
(2015年3月19日に増築/最終更新時:2023年09月22日(金)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。

聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

〔目次〕

台湾><朝鮮半島から引き揚げてきて><戦争から帰った父><身近な戦死者><チョコレート体験><本土><酒田の地主として><農家の戦中戦後
筆名の年度別・五十音順さくいん(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が違うかも…)
2023年度前期
からあげ
2021年度後期
AEO
2020年度後期
KNK」「KUK」「SKM」「YKT


2020年度前期

SS
2019年度後期
SC」(同上)
2014年度後期
くろあめ

<台湾>

 
・当時は子どもだった祖父(2014年度後期・日本政治論「くろあめ」さん):
 
 講義で、祖父母の生活は敗戦前後でどう変わったかという質問を例示されたので、実家に帰省した時に聞いたところ、祖父から二つの話を聞かせてもらった。
 一つ目は祖父が戦前に台湾に住んでいたということであった。細かい事情は当時は まだ小さかったため覚えていないとのことだったが、おそらく祖父の父(私のひいおじいさん)は台湾が日本領として扱われる前後から台湾に渡ったとも話して いた。当時の家は比較的裕福で、今でも祖父は楽しかった思い出を失ってはいないようだった。
 第二次大戦が始まると、祖父は祖父の父の仕事の都合で日本へ引き揚げてきた。 子どもながらに戦争は嫌なものだと思いながら毎日を過ごしていたらしく、家の近くにあった駅が空襲を受けた時には衝撃だったようである。敗戦を迎えたとき は、これからどうなるだろうという不安があったらしい。
 二つ目は敗戦後の話である。祖父が未来への不安を抱えていたのには、祖父の兄 がニューギニアで戦死し、姉弟で祖父が末っ子だったという理由がある。兄が死んでしまい、祖父は家を継ぐ責任が生まれたと自覚していたようである。その後 は姉と共にとにかく勉強に打ちこみ、私が生まれた実家を建てたときが一番安心したという話だった。
→「くろあめ」さんの感想:ずいぶん昔の話なので、はっきり 覚えているところとそうでないところでだいぶ差があるという印象を受けた。しかし、しきりに祖父が言っていたのは、戦争の日本の発展は様々な要因が重なっ た奇跡のようなものであり、決して戦争によって得をすることはないということだった。自分たちは戦争を経験していないが、祖父の世代の経験の語り部となっ ていることを実感した。自分の子どもや孫にそれを伝えるのと同時に、私たちが今まさに経験している脅威(震災、リーマン・ショックによる不況、イスラム国 等)についても語り継いでいかなければならないと思う。
<朝鮮半島から引き揚げてきて>
・敗戦時に20歳代だった祖父(2021年度後期・日本政治論「AEO」さん)
 祖父は朝鮮(現在の平壌あたり)から帰り、日本交通公社(現JTB)に就職、その後、東京から仙台に移り住みました。

 祖父に戦後どのような暮らしぶりだったのか聞いたところ、以下のような話を聞くことができた。

 戦後長らく、朝鮮・中国人差別は続き、中には半分流行語のようなものになったものもあった。そのため、朝鮮から帰ってきたということをあまり表立って話すことはなかった。また今からは考えられないが、当時は子供をたくさん産み、健康に育った子だけを育てるといった形であった。本当かはわからないが、亡き祖母の兄弟も2人幼児期にそのような形でなくなった。(この話を聞いて、意外と年の差婚であったことに気付いた。)

 戦後の暮らし自体はかなり裕福なものであり、中流と呼ばれる人たちが生まれてからは旅行業界も盛り上がり、祖父はかなり幸せに暮らしたようである。また、戦争により祖母の家の跡取りが死んでしまい、洋服の仕立て屋を継ぐ人がいなくなり、当時としてはかなり珍しい女性のテーラーとして祖母が店を継いだという。収入がなかったわけではないので周りからいろいろ言われたが、楽しく暮らしていたのは間違いないという。結局、体力的な問題と祖父母で旅行を楽しみたいということで祖母が50過ぎのころに廃業したというが、なんとも理想的な生活だと思った。
 

→「AEO」さんの感想:話を聞いて一番意外だったのは、在日朝鮮・中国人だけではなく、一部の人は引き揚げの人々にも差別の矛先を向けていたことだ。我々の直感からすれば理解しがたいものであるが、差別をしていた側の人の話も聞いてみたいと思った。また、かなり裕福な暮らしをしながら、共働きであったということもかなり驚いた。

 祖母が裁縫をしていたのは趣味であると思っていたが、それが職業から来ていたというのは意外だった。祖父もかなり勇気ある決断で祖母の後押しをしたのだと思った。

 また、これらの話を笑顔でしてくれたのも意外であった。戦中の話は嫌でも、戦後の暮らしであれば、そこまでセンシティブなものではないということなのだろうか。

<戦争から帰った父>
・1945年当時は5歳だった祖父に聞いて/2023年度前期・日本外交論1「スヌーピー」さん
 私は、戦争について講義を受けていて、幼い時に、祖父から戦争をしていた時の日本の様子を聞いた記憶がよみがえった。

 敗戦当時の祖父は5歳程度だったそうだ 。戦争まっただ中で、食べるものもなく、祖父の父や叔父が戦争に駆り出されている最中だった。

 もともと青森市に住んでいた祖父は空襲により疎開するしかない状態で、兄弟と母とともに今住んでいる蓬田村(よもぎたむら)に移り住んだ と語っていた。

 蓬田村では皆畑をやっていて、食料はほとんど自給自足・近隣の人との物々交換が主だったそうだ。卵や肉はほとんど食べられず、とても貴重なものだったようだ。祖父はよく「菜っ葉(大根の葉)は食べたくない。食べ飽きたんだ」と話していた。戦争中はお味噌汁に大根の葉を入れて食べていて、少しのごはんと少しのお味噌汁が一日に2回程食べていたそうだ。

 学校の修学旅行にもお金がなくて行けず、祖父は祖父の母から「鍋の底でも見ていろ」といわれていたそうだ。祖父がいうに、贅沢しないで、違うことで気を紛らわせという意味だといっていた。空襲が来た時には、田んぼの隣にある用水路に身を隠したり、山の中に隠れたりしていたとも話していた。

 祖父の父が戦争から帰ってくると、人が変わったように酒に溺れるようになってしまった そうだ。祖父はそんな父親が嫌いで、人が変わったことに関しても興味を持たなかったらしい。毎日、畑や薪割り、弟や妹の世話で勉強をまともにできずにいたそうだ。そうして、祖父は戦争の時代を過ごしてきたんだと、小学生の頃から私たち兄弟に話していた。

※松本注:まずまちがいなく、「スヌーピー」さんの曾祖父上は戦場での体験によってPTSDを患っておられたのでしょう。この問題では2023年5月にYBCテレビで放映されたドキュメンタリー「でくのぼう〜戦争とPTSD https://www.ybc.co.jp/tvprogram/dekunobo/ 」を見た人も居るかも。
 私は、戦争は学校で習う歴史のように感じていた。自分は体験したことでないし、なんなら、時代の歴史を習っているときのように、こんなことあったんだ、覚えとこうくらいの感覚でいた。しかし、祖父の経験を聞き、全く他人事ではないのだと思った。自分の住んでいるところにも空襲があったこと、曾祖父に当たる人が戦争に行っていたこと、祖父が貧しい生活をしていたこと、それらを考えると自分がまるで体験してきたもののように感じた。祖父は今までに、「食べ物を残すな、食べられない人もいる。今食べとかないと、食べたいときに後悔する」、「勉強はきちんとしろ、できるのは若いうちだけだ、勉強したくてもできない人はたくさんいるんだ」と話していた。いまなら、授業で戦争がどれだけ悲惨なものであったのか理解できる。したがって、祖父のこれらの言葉がさらに重く感じられるようになった。

 授業では、新聞やラジオが国民を戦争へ誘導していて、国民も乗り気であったと思う。しかし、一部の国民が「日本万歳」などと言っている一方で、祖父のように「戦争が早く終わればいい、勝てなくてもいい」と思っていた人もいるのではないかなと思った。

 祖父は数年前に亡くなってしまい、もう話を聞くことができない。しかし、亡くなる前に幼い時にこのような戦争の体験を聞くことができたのは本当に、貴重なことだと感じる。機会があれば、他の方にもこのような戦争の体験について話を聞きたいと感じた。また、戦争から帰ってきた祖父の父はどうして人が変わってしまったのか気になった。生々しい戦争の様子を見てしまったからなのだろうか。それとも、戦争に勝ちたかったのだろうか。今となっては、聞くことのできる人がいない為、分からない。しかし、何らかの影響で精神を壊してしまったのではないかと考える 。

 二度と戦争をしてはいけないということを改めて感じる。

※松本注:「スヌーピー」さんと同様に(前線で)戦闘を体験した人の話を聞く人も居るでしょうから、兵士の心理を知っておくための参考書として、とりあえず以下の三冊を紹介しておきます。
《1》吉田裕『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』中公新書、2019年、820円 →山大図 開架新書 391.2//ニホン
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/12/102465.html
https://www.chuko.co.jp/ebook/2019/07/516678.html 
《2》デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、2004年、1500円 →山大図 開架文庫 368.6//センソ
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088598/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088598/
《3》中村江里『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』吉川弘文館、2017年、4968円 →山大図 開架 394//センソ
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b325811.html
<身近な戦死者>
 
・山形県最上にくらしていた父方の祖母/2020年度後期・日本政治論「KNK」さん
 祖母は当時最上地域の古口という村に 住んでいて、戦時中は、昼間などは特に目立った空襲などの被害に遭うことはなく、安全に生活できていたそうであったが夜になるとアメリカの戦闘機である B29が飛来し、明かりが点いている建物には爆弾を落として行っていたため、夕方の早いうちから明かりを消して外から家の中が見えないようにして過ごして いた。そのため戦時中の夜はあまり寝られた記憶がないと言っていた。
※松本注:古口村は1955年4月に角川村が合併して古口村へ。さらに同年5月に改称して戸沢村へ。
  また、祖母は兄弟が多くいてその中の一番上の兄は海軍に徴兵されていき、そしてある時避難する人たちを乗せた船がアメリカ軍の攻撃を受けて沈没した時その 船に乗り合わせていた祖母の兄は一緒に乗っていた子供たちを助けようとして死んでしまったらしい。このような死に方をしてしまった兄を知っているからこそ 戦時中も祖母の周りの人たちは戦争に勝ってほしいという気持ちではなく、結果はどうでもいいから早く戦争が終わってほしいという人たちが大半だったよう だ。そして、終戦時も戦争に負けて悔しいというのが東京を中心とした国民の気持であったが、この時も祖母たちは内心では大切な家族を奪った戦争がやっと終 わってくれてほっとしたという気持ちだったそうだ。
→「KNK」さん の感想:私はこの話を聞いて今までは戦争によって命を落としたという話は終戦記念日に放送する戦争の歴史の番組の中で流れていることでしか感じることがで きなかったため、自分の家族の血縁者に実際に戦争で亡くなっている人がいたというのが驚きだった。また、自分も7,80年という長くはない時間先に生まれ ていたら同じような体験をしたかもしれないと思うとゾッとしたと同時にやはり戦争は得るものよりも失うものの方が大きいと改めて実感した。また、田舎は都 会からの疎開先にもなっていたためアメリカからの攻撃などは全くといっていいほどないと思っていたが、爆撃などもされていたということを知り意外と田舎も 危険だったんだなと感じた。
 疑問点としては今回聞いた話のほと んどが知識程度に少しだけ知っていることか、まったく知らないことばかりだったのであまり疑問を抱けなかったが、一つだけ不思議に思ったことが一つあり、 夜の空襲では明かりの点いている建物にのみ爆撃をしていたと聞いたが日本をいち早く降伏させるには日本各地に無差別に爆撃した方がよかったのではないかと 思った。また、それをしなかったのは戦争における何らかの暗黙のルールがあったからなのかと思った。


<チョコレート体験>
 

・1945年の敗戦当時は5歳で宮城県在住だった祖母/2020年度後期・日本政治論「YKT」さん
  祖母は終戦時の1945年当時は宮城県大崎市の岩出山という山の中の小さな町に住んでいた。まだ小さかったけれど、B−29が飛んできて親と一緒に近所に ある防空壕に駆け込んだことは覚えているらしい。また、父親も戦争にかり出されしばらく家に居なかったため、終戦後に父親が帰ってきたとき、あまりに会わ なかったからか「この人誰?」と聞いてしまったらしい。
 GHQの占領改革が始まった頃には、祖母が住んでいた岩出山の近辺にもアメリカ軍がやっ てきたという。住んでいた村の近くにやってきたときは、たくさんの子供達がアメリカの人々にチョコレートを貰いに行ったという。最初は怖いイメージがあっ たらしいが、実際にはチョコレートを渡してくれる気のいいおじさん達だった。
→「YKT」さんの感想:以上が祖母から聞いた戦後の日本についての内容である。まだ小さい年齢ながら、やはり戦争という出来事の記憶は残ってしまうのだと感じた。自身の頭上を戦闘機が飛んでいく音は、私達のように戦後生まれた人々は経験しないので、より印象に残った。

 また、宮城県の山の中にまでアメリカ軍がやってきたことが印象的だった。地図上だと大崎市岩出山は小さな地域だったが、そのなかの広がった場所にアメリカの飛行機(ヘリ?) が飛んできたと聞き、アメリカの占領改革は本当に日本全体に及んでいったのだろうと知った。
  そして、祖母や他の子供達はまだ日本が負けたという事実をよく理解していない年で、アメリカの人にチョコレートをもらいに行くという話はほっこりした。当 時は日本ではチョコレートも珍しい食べ物で、当時の純粋な子供達にとってアメリカ軍は怖い人というよりも好奇心が刺激される存在だったのだろうと思った。

 こうした話を聞くと、アメリカ軍が日本のどこまで広がっていったのかが疑問となった。東北の田舎町にまで来るということは、かなり大人数が日本を訪れたということであると考えられるので、親戚の方々などにも話を聞くことが出来れば聞いてみたい。


<本土>

・敗戦当時13歳だった祖母(2019年度後期・日本外交史「SC」さん
・聞き取り相手:僕のおばあちゃんに話を聞きました。おばあちゃんは僕のお父さん方のお母さんです。当時13歳くらいで現在の栃木県宇都宮に住んでいて、中学生だったと聞いています。

・聞き取り内容:戦後、アメリカの占領下時の宇都宮の状況など教えてもらい当時の日本に住む人の暮らしや街の様子を初めて聞き今の自分たちの暮らし とは違い、食料品などの物資が不足していて生活を営むのに苦労していたと知り、想像していた以上に過酷なものでした。他には、当時食べていた食事で長期保 存の食材が重要視されていたことを知り、その当時の環境を想像することが出来たので面白かったです。
 

・聞き取りをして疑問に思ったこと:戦後の状況で自動車はどれくらい普及していたのか、沖縄ではアメリカと同じで道路は右側通行していた 時期があったので日本のほかの地域はどうなっていたのか気になりました。アメリカ軍に普段の暮らしでどのような制約があったのかまた、新たにしなくてはい けないことやアメリカのルールを強制的に導入することがあったのか気になります。当時の宇都宮にはアメリカ軍がどれ程の人数が駐留していて、沖縄の海軍の ように問題行為が起きていたのか気になりました。
・敗戦当時9歳だった祖母(2020年度前期・日本外交論1「SS」さん)
・当時は気仙沼市で暮らしていた(沿岸部ではなく、山の方)。
・小学3年の時に終戦を迎えた。
・敗戦前には:
 当時の祖母の実家は田んぼや畑などを所有しており、作物を育てながら養蚕も行っていた。お手伝いの人もよく来ていたという。採れた米や野菜は学校の人に分けていたらしい。(いわゆる自作農だったらしい。)
 周辺地域の中では比較的裕福だったらしい。
・敗戦後には:
戦後直後は食料に困っていた。
田んぼや畑に大きな変化は無かったが、お手伝いの人はあまり来なくなったという。
養蚕はやらなくなった。
・敗戦当時は4歳だった祖母・岩手県在住/2020年度後期・日本外交史「SKM」さん
 話を聞くと、当時は本当に小さくてかなりの昔のことであまり覚えていないということだったが、ある日の空に、戦闘機が飛んでいたことは覚えているということだった。
 また、中学の社会の資料集や高校の日本史の資料集には戦時中に私の出身市の子どももが大根をかじっている写真が載っている。そこに大きく映っている少年は、私の中学の社会の先生のお父さんの知り合いだ、と中学の社会の時間にその先生に教えていただいた。
→ 「SKM」さんの感想:祖母から聞いた戦闘機を見たということと、写真のことを含め、思ったことは、本当にそのようなことがあったのだ、ということだ。私 からしたら、今までは70年以上も前の出来事で作り話のような感覚だったが、身近なところでその当時のことを聞いたら本当に現実だったのだと感じ、興味深 かった。
 
 私の出身は岩手県だ。戦争のとき、岩手県釜石市は大変工業が発展しており、栄えていたため攻撃された。私は釜石市に住んでいたこともあったし、実家の隣の市で、身近な町だ。疑問ではないが、これからしたいこととして、釜石の人にその当時のことを聞いてみたい。


<酒田の地主として>
 

・敗戦当時には十歳未満だった祖父母たち/2020年度後期・日本政治論「KUK」さん
<敗戦当時3歳だった母方の祖母>
  当時は、丁度部落の真ん中辺りに住んでおり、戦中の思い出として、一番印象に残っているものは、米軍飛行機の音がうるさく、通る時には、よくこたつの中に 隠れていたこと。また、戦中も戦後も家族は、農家をしており、戦争前後で生活自体はあまり変わらなかったが、調味料は、味噌以外は配給だよりであった。部 落では、事あるごとに集会が開かれ、祭りについての話し合いが行われていたり、部落の農家が集まり、共同で仮眠をしながら仕事をしたりしていた。現在とは 異なり、消防団が各部落にあった。
<敗戦当時8歳だった父方の祖父>
  戦前、戦中は家族が地主で、自身は小学二年生、酒田市の新堀(現在でも調査者含め家族ほとんどが暮らしている家)に住んでいた。地主ということもあり、戦 争の前は裕福だったが、戦後の農地改革で比較的貧しくなった。そのため、父親(調査者から見れば曾祖父)は、戦後役場に就職したが、すぐに辞め、その後は 「たけのこ生活」(家にある骨董品などを売って生活すること)の日々を送っていた。当時は、道が舗装されておらず、自転車とリアカーが交通手段の中心で、 牛や馬も良く通っていた。また、戦中には、金具が回収され、家にある(現在もある)明治天皇の記念石碑からも回収された。当時の戦争観としては、口では勝 つとは言っていたものの、内心は絶対負けると思っていた。
<敗戦当時2歳だった父方の祖母>
  戦前、戦中は家族が小地主で、酒田市の杉之浦に住んでおり、戦時中は疎開先であった。当時は、井戸水で手洗いをしており、戦後は、一時「たけのこ生活」の 日々であったが、家族が柿を植えたり、鶏を飼ったりと様々な事業に手を付け始め、縫製で成功した。地域の行事は多く、酒類製造免許を持っていた家族は、婦 人会で酒の講習会を開いていた。また、当時は酒の密造がよくあり、盗みも多発していた。小学校などでは、しらみを退治するため、体育館に集まり、DDTと 呼ばれる農薬〔※松本注:殺虫剤〕を生徒にかけていたらしい。
→ 聞き取りを終えての「KUK」さんの感想:どの話も新鮮だったが、特に気になったのは、聞き取り相手全員が戦前、もしくは戦中にそこまで貧乏ではなく、む しろ裕福であったということである。この頃は、映像などで見たり、聞いたりしたところでは、国民全員が貧乏であったという印象しかなかったので、かなり衝 撃的であった。「たけのこ生活」も興味深く、戦時中は徴兵されて、戦争に出向いている人もいる傍らで、地主階級の人は、趣味に没頭していたひともある程度 いたのだろうかと考えると本や映像では知りえなかった当時の現実が知られた。

 また、地方の人々は、戦争観として、勝つ(話によるとそうとしか口 に出せなかったらしい)と言う話をしていた人が多数であったと授業で学んだが(ただこれは日露戦争後なのでまだ勝ち続けている時期)、祖父と祖母は、内心 負けると思っていたらしく、異なる戦争観を持っていた人もある程度いたのだろうなと感じた。その他、盗みの多発や交通手段など当時の地方の状況が知られる ような面白い話が聞けたと思う。

<農家の戦中戦後>
・1945年当時に8歳だった祖母/2023年度前期・市民社会論「からあげ」さん
 話を聞いた人:86歳。祖母 。当時は農民。宮城県内の田舎出身。一部、私が聞いたことのない言葉がありましたが、祖母が使った言葉のまま記載しています。その言葉については、それの後ろに括弧書きで、祖母がそれについて説明してくれた言葉を加えています。


《1》戦時下

 床屋さんとパーマ屋さんと役場しかない集落だった。郵便局の建物もなく、広い庭があったお金持ちの家が郵便局の代わりをしてくれていた 。お金がなかったので、豆腐屋さんが豆と豆腐を交換してくれていた。

 空襲警報が鳴るのは日常茶飯事だった。警報が鳴ると、長男がゲートル(脚に巻く布?)を巻いて靴を履いて、天皇の写真を保護するために奉安殿に走って行っていた。祖母たちは、防空頭巾を被って人の影を隠すように木の陰に隠れていた。いぐね、という防寒・防風のために植えていた木の下にも隠れた。

 祖母を含め女性たちは、空襲が落ちてきた時を想定して火を消す訓練をしていた。頭に、はちまきや防空頭巾を着けて、タラバス(米俵の蓋?) に竹槍をさした後、水を入れた樽にそれを浸し、濡らしたタラバスで火を叩いて消す、という訓練を小学生の時にしていた。

※松本注:「タラバス」に近そうなのが「はたき」か「火叩き」です。画像が http://www.asaho.com/jpn/img/2014/1013/2.jpg  (大日本防空協会編(内務省推薦)『防空絵とき』(同協会、1942年)より)。掲載は、早稲田大学・水島朝穂のホームページ http://www.asaho.com/jpn/ >バックナンバー >2014年 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2014title.html >向田邦子と防空法 --- 火叩きによる消火 2014年10月13日 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2014/1013.html 。
 空襲が来た時に、山の上から真っ赤に空が焼けるのを見た。山の上のタイショウドウ( 祖母曰く、飛行機を落とす機械)が飛行機を落とすのは見たことがなかった。B-29が来た時は、家の明かりを外に漏らさないように、電球に風呂敷をつけて真下だけを照らす工夫をしていた。
※松本注:「タイショウドウ」は高射砲か対空砲か対空高射砲か。
《2》戦後戦後
 祖母曰く、占領期に特に農地についての改革を実感したことはなかったらしい。祖母の住んでいた部落で改革らしいこと をしたのは、祖母が18歳の頃(恐らく昭和29年=西暦1954年)。戦後、中学校までは通ったが、中学校内でも農民と高校に進学する人間とでは授業内容が違った。農民である祖母は農業についての授業を学んだため、あまり学問については詳しくない(実際、今まで何度も、漢字が読めないからと読み方を聞かれたり、漢字の書き方を聞かれたりしたことがある)。

 終戦時は祖母の父親が生きていたため 祖母が畑に行くことはなかった。道路の近くで祖母たちが遊んでいると、ジープ(車?)が止まって、中から出てきたアメリカ兵がチョコレートをくれた。しかし、父親はすぐに亡くなってしまい、その後は小学校が終わると畑仕事の手伝いに行っていた。小さい子供でも大人と同じ扱いをされ、勉強よりも畑仕事が優先だったそう。

 祖母の父親が亡くなってからは、祖母が弟を背負って小学校に通うことになった。弟が泣いてしまうと、他の生徒の邪魔になってしまうため、祖母含め小さい子を連れてきた生徒は廊下で授業を受けさせられた。男の子は野球のようなことをして遊んでいた。部落では運動会があり、みんなで盛り上がった。

 祖母が中学生の頃には、近くにパン屋さんができた。このときもお金がなかったので、そのパン屋さんではお米とパンを交換してくれた。学校から布が配布されたので、その布を使って近所の人にセーラー服を作ってもらった。祖母の代までは、中学3年生の修学旅行は日光で、祖母の次の代から東京に行くようになった。

 祖母の兄が農業を継ぎたくなかったらしく、勉強をして就職したので、農家は祖母が継いだ形になった 。畑も田んぼも、牛に手伝ってもらって作業をした。牛に田んぼを耕してもらうのだが、少し放ってくと疲れて止まった牛の脚が抜けなくなってしまうことがあった。牛は諦めてその場で寝てしまうことが多かったそうだが、顔は畑から出ていて、餌を近づけると食べはした。牛を田んぼから引き抜くのは大変だった。祖母は牛と仲良しで、牛の背中に乗って移動することもあった。ただし、他の人が近づくと頭突きすることもあった。

 祖母が18歳の頃には、人力の石臼や、人力の脱穀機を使っていた。今までは、小さい田んぼや段差がある田んぼを使っていたが、この時期辺りから田んぼの区画整理(横幅7軒半、縦幅40軒)、土地改良が始まった。戦死者も多く、男がいない家庭が多かったので、性別関係なく18歳以上であれば女性でも区画整理を手伝うことになった。祖母は、簔(ミノ)を着てから箱を背負って、高いところから低いところに土を移動させていた。

 祖母が20歳の頃には市町村合併が行われ、祖母も仙台に出た 。とはいえ、定期的に故郷に戻って農作業の手伝いはしていた。

 昭和35年くらいまではずっと牛を使って田んぼや畑を耕していた記憶がある。その後詳しい時期は忘れたが集落で一つの機械を買って、みんなで使い回していた。

 戦前も空襲などで大変だったが、戦前は父親が生きていた。一方で、戦後は父親が亡くなってしまうし、弟の面倒も農家も祖母が頑張ることになって、より一層大変だったという 。


《以上です》