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「田中角栄/列島改造論/石油ショック」

文責:松本邦彦
(2008年02月13日に増築/最終更新時:2022年03月23日(水)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。
聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

「筆名」年度別・五十音順さくいん(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が違うかも…)

2021年度
IOA(石油ショック)」「IOA(パンダ)」「ISY」「TYO
2020年度
NKR」「TKS」「TUI」「YKT」「三角莇
2012年度
波乗りうさぎ
2011年度
ジェシー」「みずたま
2010年度
TDN」「ネコ」「ぷにたま」「まめじ
2008年度後期受講生
ステンレス」「日本一の蹴られ役
2007年度後期受講生
ちくわぶー」「箱ティッシュ」「ペナ」「みずいろ」「milk」「リラックマ


<私は見た>
当時22,23歳 大学生 富山県在住 友人の父/2010年度後期日本政治論「ネコ」さん〕
 田中角栄は、実家に帰省した時に、ちょうど近所で演説していた。ずんぐりむっくりで、ちょびひげの印象。好きだった。良いこと も悪いこともいっぱいした。当時は車を持っていなかったが、あとあと考えたら現在の交通網があるのは田中のおかげだと思う。恩恵を受けている。確かに道路 は良くなった。田中の周りには、自然に人が集まってきていて、支持を得ていた。人の掌握術に長けていた。

 石油ショックではニュースでトイレットペーパーの奪い合いを見た。自分自身はそうでもなかったが、知人がトイレットペーパーを買えなかったと嘆いていた。

→「ネコ」さんの感想〕田中人気がすごかったことを改めて感じた。私としては授業を受けるまではロッキード事件の印象が 強かったが、確かに良いことをしてくれたのも事実。特に道路という生活に密着したモノとして目に見える形で業績が残っているだけに、事件は残念。良くも悪 くも今ではいない魅力を持った政治家。
<新潟出身者から見て>
 
・新潟出身で1980年代に東京で学生だった母、群馬で働いていた父/2020年度後期・日本政治論「TUI」さん
(1)上越新幹線について
  新幹線が開通するまでは、新潟から東京に行くためには、上越線を経由して、特急電車で5〜6時間かかっていた。
  現在は東京駅まで開通している上越新幹線だが、母が進学のために上京した昭和58年(1983年)当時は、上野駅までしか開通していなかった。当時の上野 駅は東北、関東近郊、新潟県に行く列車が多く乗り入れていたため、「地方出身者が多く集まる」雰囲気があったそうだ。母の友人は京都府の出身で、東京駅を 使っていたため、洗練された雰囲気が漂っていて羨ましく思っていた。
  当初の予定では東北新幹線が上越新幹線よりも先に開通する予定だったが、角栄首相の「よっしゃ」の一言で、上越新幹線の方が先に開通したと言われている。
(2)関越自動車道について
  関越自動車道が開通するまでは、自動車で東京に行くためには、1959年に開通した三国トンネルを通らなければならなかった。三国峠越えは、道路の道幅が 狭く、カーブが多い、トンネルが多くて狭い、危険を伴う道だったそうだ。最近では専ら関越自動車道を利用しているため、状況はわからない。

  しかし、物流で重要な役割を果たす危険物積載のトラックは、現在でも関越トンネルを使うことができない。母は関越自動車道を運転しながら、いつも心苦しい 気持ちになると言っている。苦労されているトラックを運転される方が安全に運転できるためにも、1日も早い解決策が見つかることを願っている。

  母が東京にいたとき、同時期に父も群馬県南部で就職していた。2人で新潟県に帰省する際、関越自動車道はまだ全面開通しておらず、三国トンネルを通って新 潟と関東地方の往来をしていた。実際に運転していた父も三国トンネルを通る際、道幅が狭く、危ないと言っていたそうだ。

また、柏崎市を通る北陸自動車道に「西山インター」がある。実際に高速バスに乗っていて、なんでこんな何もないところにインターがあるのかと不思議に思っ たくらいだ。母によると、角栄首相の故郷である旧西山町(現柏崎市)へ帰省するために作られたインターと言っていた。

→ 「TUI」さんの感想:私は高校生の時に群馬県内の大学への進学を志望していた。志望校へのオープンキャンパスや個別試験に上越新幹線、関越自動車道を利 用していた。最終的に、米沢市内にある短期大学に進学したが、新幹線で群馬県に行くのと、各駅電車(米坂線)で米沢市まで行く時間は大きな差はないと感じ た。角栄氏が首相になったからこそ、新潟県の高速交通網は劇的に変化したのだと感じる出来事だった。

特に、中越地方では、首相を引退した後でも根強い人気があった。母によると、小千谷市では「越山会でなければ人でない」と言われるほど、角栄首相の悪口を言うことはタブー視されていたそうだ。
 
また、角栄首相は越後交通(中越地方を中心としたバス会社)の社長、会長を務めていたこともあり、現在でも「田中角栄大先生」と称されていた。地域によっ て温度差はあるが、今でも「新潟県民に田中首相の悪口を言うと嫌な顔をされる」と言われている。現在でも角栄首相の恩恵は新潟県民にとって大きいものと考 えられる。

 私は新潟県の下越地方出身だが、高校(新潟市内)の社会科の授業内でも、角栄氏が首相になった部分は、「田中首相は新潟県民」と強調 して話していた記憶がある。また、私の世代だと、「上越新幹線を作った人」と認識しているようだ。自分自身も、上越新幹線と高速自動車道の開通により、特 に関東地方への利便性の向上は大きな恩恵を受けているし、新潟県から首相になった人として、誇らしく感じた。
 疑問点としては、現在の「越山会」はどのようになっているのか(衰退しているのか、現在も活発に活動しているのか)が気になった。

<今太閤>
当時中学3年生 父/当時は山形県最上地方在住/2007年度後期・日本政治論「milk」さん
(1)「今太閤」について)「太閤」と呼ばれた豊臣秀吉が、農家の出身であったが自分の努力により天下統一を果たしたように、田中角栄も最終学歴が小学校までだったが、独学で勉強し首相になった。

 このように、太閤秀吉のように決して恵まれた環境ではない中で、内閣総理大臣にまで上り詰めたので「今太閤」と呼ばれた。

(2)「列島改造論」について)景気が良く、米価や地代が上がり、道路も整備されていた。この「列島改造論」という言葉自体が印象的だった。

(3)「石油ショック」トイレットペーパーの価格が急上昇し、スーパーに人々が押し寄せた。(例えばダンプの運転手が)燃料を得るために、ガソリンスタンドを何軒も回らなければ満タンにはできなかった。現在の石油の高騰と違って、実際に原油が産油国から入ってこなかった。

→「milk」さんの感想:豊臣秀吉が「太閤」と呼ばれていたのは日本史で習ったことがあったが、田中角栄が「今太閤」 と呼ばれていたことは、この講義で初めて知った。ロッキード事件というスキャンダルがあり、私自身の中ではあまり良い印象のある人物ではなかった。だが、 多くの議員と違って大学を出ていないにもかかわらず、独学で勉強して政治の世界で活躍していたので、やはり才能と人を引き寄せる魅力を持っていた人物なの だと感じた。また、政治にそれほど興味を持たないような当時の父の年代の人にも、「列島改造論」という言葉が強く印象に残っていることから、角栄の政策は それまでにない新しいものだったことが窺える。

 石油ショックについては、よく耳にするようなトイレットペーパーの事例から、現在と当時の石油高騰の原因の違いまで様々なことを聞くことができた。

 普段の会話ではほとんど触れることのない話題について話し合うこと ができて、自分の視野が広がった。

 高度経済成長期や昭和35年についての聞き取りもしてみたかったが、この年代の人は都会に出ており、身近に住んでいなかったため詳しい聞き取りができなかったことが残念だった。今度機会があれば、ぜひ聞いてみたいと思う。

<改造人間と列島改造論>
当時十代前半の中学生 両親/当時は寒河江市在住/2008年度後期日本政治論・「日本一の蹴られ役」さん
 まずは、今までで最も支持率が高かった総理って誰だと思う?」という質問から入った。「小泉だと答えたら違うと言われた」と鎌をかける形でおこなった。すると両親はすぐに「じゃあ田中だ」と答えた。

 彼らは田中が現役で総理をやっていた当時、中学生だったというので、「正直、その頃政治に興味があったか?」と諦め気味に聞いてみたのだが、「な いこともなかった」と好感触。田中の掲げた「日本列島改造論」は、当時放送していた「仮面ライダー」(改造人間)に相まって子どもにもキャッチーなネーミ ングだったらしい。

 その他にも、「まっ、しょのー」や「ヨッシャヨッシャ」など、田中の物真似をしていた子どもが多かったとのこと。なるほど、やることが 分かりやすく、キャラクターが立っていれば子どもに人気が出るのもうなずける。母などは、「当時は、大人より子どもの方が政治に興味を持っていたかも」と 冗談めかして言っていた。

 石油ショックが起こったことなどについても、自覚があったらしい。とは言ってももっぱらニュースで報じられる都会の様子を見て知ったら しいが。水洗便器が普及していない田舎に住んでいたから、都会のようなトイレットペーパー買い占めは起こらなかったという。この後から、地方から都会へ人 が流れ始めたと寂しそうに呟いていた。

→「日本一の蹴られ役」さんの感想〕田中角栄の人気はすさまじいものだったと思い知らされることになった。人気を確認 した後、「逮捕されたのに?」と聞いても、あまり動揺していなかったようだ。今の御時世、ここまで好かれている政治家はいないなと羨ましく思いつつも、盲 目すぎるのも危険だと肝に銘じたい。
<新幹線>
・当時11歳くらい 小学生 長野県飯島町(長野県南部=信南) /2010年度後期日本政治論「TDN」さん〕
(a)石油ショックについて
 長野県の田舎に住んでいたのでみんながテレビで見るようなトイレットペーパーなどの買占めは起こらなかった。テレビをつけるとそのような騒動が起きていたのでただ見ているだけだった。
(b)佐藤栄作について
 長く総理をやっていた。そのくらいしか記憶がない。
(c)田中角栄
 列島改造論を聞いたら日本がこんなに素晴らしいものになるのかと思いとてもわくわくした。自宅に列島改造論関連の本があったらしく手にとって読もうと思ったが内容が難しく新幹線の地図を見るくらいしかできなかった。
→「TDN」さんの感想〕 私は石油ショックの時、全国的にトイレットペーパーの買い占めが起きていると思ったが聞いてみると田 舎はそんなに騒動になってなかったと知って驚いた。この事実は実際にその時代を生きた人に聞かなければ知ることのできなかったことなのでとても為になる話 が聞けた。
<道路と地方>
・当時16歳、高校生、父/山形県櫛引町在住/2011年度後期・日本政治論「ジェシー」さん〕
 石油ショックにより、トイレットペーパーの買い占めや、ノートの値上がりが起こり、驚いた。「列島改造論」については、直接的に山形に住んでいて、影響は感じなっかった。冗談で、田中角栄が山形の庄内出身だったらなぁ、と思う。
→「ジェシー」さんの感想〕東日本大震災で物不足を体験したが、身近なところでは、ある程度マナーが守られていて、買占めは起こ らなかった。列島改造論について、同じ日本海側の雪国の山形としては、新潟みたくなりたいと思うところはあるのかもしれない。新潟の道路や、交通網はどん なに立派なのか、一度実際に見てみたく思う。
・当時14才、父/青森県十和田市在住(2012年度後期・日本政治論「波乗りうさぎ」さん)
 田中角栄が提案した「列島改造論」については知っていました。特に新潟に高速道路が通ったことがすごかったらしく、父は新潟の高速道路を通るたびに今でも「すごい、すばらしい」と思うそうです。それくらい衝撃的な出来事だったと思います。

 1976年のロッキード事件の時は父は大学一年生で、テレビでそのニュースを見たそうです。「何を変なことをしているのか」と思ったみたいですが、あまり興味がなかったと言っていました。父の友人が田中角栄の護衛をしていたそうです。

 石油ショックはテレビ情報でそういうのを知って、トイレットペーパーやティッシュなど生活用品が無くなったそうです。二日おきに買い出しをした記憶があると言っていました。

→「波乗りうさぎ」さんの感想:田中角栄の当時の「列島改造論」は大きなメリットもある反面、大きなデメリットも同時に 持っていました。そのデメリットを少し減らしていける政策が強化できたら良かったと思いました。一気に改造をせずに、少しずつ長いプランをかけてつくって いけたら良かったと思いました。
 そして、それと同時に興味を持たなくてはいけないなと思いました。父と話していて、将来、もし自分に「あのときはどうだった?」と子供に聞かれたときに、答えられるような知識や情報を持ちたいと思いました。
当時 8歳 小学生 父/当時は山形県在住/2007年度後期・日本政治論「ちくわぶー」さん
 田中角栄は学歴が無くても首相に上り詰めたということから、“なりあがり”の象徴であり、庶民のヒーローという感じだった。

 「列島改造論」の中心的な考えとしては、公共の建物や施設を地方に分散して造ることで、それを元にして、まちがつくられ、人々が集まり、発展して いくというものがあったとのこと。地方の人々は賛成していたが、都市の人々はこのような考えに反対していた。仙台を首都にするという案も耳にしたことが あった。

 石油ショックのときに一番印象に残っているのは、車の交通事故が激減したことであるという。ガソリンの価格が高騰したために、車の運転を控えたり、スピードを出さなくなったからだそうだ。

→「ちくわぶー」さんの感想:山形県の人々は田中を支持しているようだった。田中の出身の新潟県同様に雪国で道路や新幹線の整備 が遅れていた環境にあることから、それもうなずける。「列島改造論」については、以前他の講義で田中の著書のなかに山形県の酒田市が取り上げられていると いうことだったので、読んでみたいと思った。
<車を買う>
・1972年当時28歳 祖母の弟/山形市在住・警察官/2011年度後期・日本政治論「みずたま」さん〕
 トイレットペーパーの買い占めが起こった。

 田中角栄が首相の頃に自動車を買ったが,近年騒がれたほど,当時は“ガソリンが高くなった”という感覚はなかったという。

→聞き取りしてみての「みずたま」さんの感想〕
 “ガソリンが高くなった”という感覚がなかったというのは,実際にガソリンの値段が上がらなかったのか,それとも金銭的に余裕があったのか,車を買ったばかりでそういった金銭感覚がなかったのか等,なぜなのかが気になるところである。

 トイレットペーパーの買い占めについては様々な人から聞き,また教科書等でも有名な話ではあるが,それ以外の影響についてはなかなか聞くことがないため興味深いところだ。

<石油ショック>
当時40代後半 祖母/当時は鶴岡市在住/2008年度後期・日本政治論「ステンレス」さん〕
 買い物に行くたび、生活必需品の値上がりを実感していました。特にトイレットペーパーを買うために行列に並んだ記憶があります。トイレットペーパーだけでなく、洗剤はスポンジなど、値上がりしそうな生活用品を買い込んでいました。

 石油ストーブを使っていましたが、暖房費がかさむので、火鉢をふたたび使い始めました。娘たちにとっては火鉢を見るのが初めてだったようで、大変珍しがっていました。

 戦中戦後は火鉢・アイロン・七輪と木炭を最後まで使い回していました。駅では薪ストーブが使われていましたし、料理をするのも薪や炭でし た。それが電気や石油に代わってオイルショックを経験したことによって、「こんなにも生活が変わったのか」と実感したことを覚えています。

→「ステンレス」さんの感想:戦中戦後から高度経済成長、オイルショックと、日本人の暮らしが変化していく様子が分か りました。三回にわたるインタビューを通じて、文献などの客観的な事実だけでなく、当時の暮らしや生活から時代の変化を読み取ることも重要な学習の一つだ と思います(「ステンレス」さん)。
・当時は30代だった祖父母/2020年度後期・日本政治論「TKS」さん
 
・1972年当時の父方の祖父母は結婚し、子どもが2人いる状態だった。父方の祖父は32歳で、長野県の村役場つどめ。父方の祖母は30歳で祖父の実家の仕事の手伝い(タバコ屋)をしながら子育てをしていた。

・田中角栄、日本列島改造論について

父方の祖父 「戦国時代でいえば秀吉。一番下っ端がえらくなった。高速道路や新幹線が次々とでき、モノの相場もあがった」

父方の祖母 「中学から専門でて総理大臣になったよね?新潟の百姓の息子から総理大臣になって一番よくできた総理だと思う。日本列島改造で道路や新幹線ができた」

 
・石油ショック
 父方の祖父 「田舎はそこまで影響がなかったように思う。車が動かなくなるほど灯油が無くなるようなことはなかった」
 父方の祖母 「トイレットペーパーが無くなったし、灯油も限られた人にしか配られなかった。灯油が盗まれることだってあった」
→ 聞き取りをしてみての「TKS」さんの感想:田中角栄の印象は二人とも好印象という感じだった。逮捕された事についての言及もなかった。とにかく「田舎か ら出てきたんだ、すごい」という感じで話の大半もそのことが如何にすごい事かということだった。地方に住む人のヒーロー、代弁者という印象をうけた。
当時30歳くらい 祖母、当時10歳くらい 母/当時は宮城県松島町在住/2007年度後期・日本政治論「みずいろ」さん)
 石油ショックの影響は田舎にもあったようで、トイレットペーパーを買いに行ったりした記憶が二人ともあるようでした。新幹線については、「新潟のでしょ?」のように返ってきたが、特に世間がどうだったかなどの印象はないようだった。
→「みずいろ」さんの感想:やはり政治には無関心だったようだが、石油ショックのように、祖母たちが体験していることについては話が聞けて良かった。今日、たくさんの食品の値上げが叫ばれているが、そのような感じだったのだろうかと思った。
・1972年当時は30歳くらいの会社員だった祖母(2021年度後期・日本政治論「TYO」さん)
 当時の祖母は山形市から天童市に引っ越してきたばかりだった。石油ショックでは祖母の周りではトイレットペーパーは不足していなかった。祖母が当時勤めていた会社に物を運んできてくれる人と知り合いだったため、トイレットペーパは分けていて貰っていたそうだ。トイレットペーパーが不足していたという状況は知っていた。列島改造論については名前自体は覚えていたが祖母は政治的なことに関心がなかったためよく知らないらしい。
→聞き取りをしての「TYO」さんの感想:何より祖母が政治的なことに無関心だったことに驚いた。しかし列島改造論については知っていたのでよっぽどの話題だったのだろう。


当時は23歳 宮城県在住 母/2010年度後期日本政治論「まめじ」さん〕

 一番印象に残っているのはトイレットペーパーの買い出しに家族総出で走ったこと。スーパーに行ったら売り切れ続出で、確保した 分は節約して使わなければならず、大変だった。野菜よりも何よりもトイレットペーパーが大事で、普段ならトイレットペーパーなんて下げていたら恥ずかしい のに、その時は街中でもどこでもトイレットペーパーを持っている人に会った。皆必死だったのだろうが、日本人の慎ましさはどこへ行ってしまったのか。

 また、公衆トイレからトイレットペーパーを持ち出す人もいて、監視がつくほどだった。自分が公衆トイレに入っている時、外から、「あなた使い過ぎよ!」と注意されたこともあった。

→「まめじ」さんの感想〕身なりのきちんとしたOLが手にトイレットペーパーを持っているのを想像しただけで笑ってしま う。石油ショックは日本人の恥の精神さえ破壊したらしい。しかし、公衆トイレでの話は本当に面白い! たぶん、カラカラという音が長かったので注意された のだろうが、今ではあり得ない話だ。今のところ、トイレットペーパーを自由に使える生活を送れているので、ありがたく思う。
・1972年当時は17歳の高校生で、仙台市に住んでいた私の高校時代の社会科の先生(2021年度後期・日本政治論「ISY」さん)
・列島改造論で覚えているのは、田中角栄首相の物真似くらい。相変わらず政治には無関心で、この政策の矛盾について知らないままだった。角栄の物真似では、角栄さんのしゃべり方が独特だったため、真似をする芸人も多く、それをおもしろがってまた真似るという感じだったよう。特にオリジナルのネタとかはなかった。

 石油ショックの影響で、修学旅行が四泊五日から二泊三日に短くなって、がっかりした記憶がある。それは、日本経済がいわゆる「低成長」へとシフトしかかっていて、石油ショックもあって経済の停滞に拍車がかかり、経済的に苦しい家庭も増加しつつあったため、「贅沢してる場合ではない」という世間の風潮もあったからだと思う、とのこと。

 その時、はじめて酒を飲んだという思い出もある。(ちなみに、先生方もベロンベロンに酔っぱらっていたとのこと。)

→聞き取りをしての「ISY」さんの感想:田中角栄の政治については無関心でも、角栄の真似をしたりしていたというところから、田中角栄の人気の高さがうかがえた。しゃべり方が独特で多くの芸人が角栄の真似ネタをやっていたというが、どんなものがあったのか気になった。(実際にやって見せてほしいと頼んでみたが、断られた。) 一人の人間の真似を複数人がやって流行っていたようなので、何がそんなに政治関心の有無関係なしに人びとを惹きつけたのか、実際に見てみたかったと思った。

 石油ショックで修学旅行が短縮されるといった影響がでていたことが想像以上だった。先生は、低成長にシフトしかかっている中で石油ショックが起こり、経済が悪化したから贅沢できなかった、と分かりやすく話してくれたが、私は「修学旅行にまで影響が出るレベルの経済悪化って何!?」とかなり驚いた。と同時に、近年でも経済の停滞や悪化・実質的な値上がりなど、聞きたくないワードがそこら中から聞こえてくるが、修学旅行が短縮になったりはしていないことを疑問に思った。だが、先生の世代で短縮された二泊三日制が今でも主流になっていることを考えると、これ以上の短縮はさらなる経済悪化を意味することになり、今まさに下の世代の修学旅行短縮の危機にあるかもと考えたら他人事じゃないなと考えさせられた。


当時は中学生 14歳 母/当時は天童市在住/2007年度後期・日本政治論「ペナ」さん

 今回石油ショックについて母に話を聞いた。まず印象的だったのがトイレットペーパーや洗剤などの不足だったという。また、母の 実家はその当時雑貨店のような個人経営の商店を営んでおり、そういった物資を入荷するのは一苦労だったという。また要望も高く、少ない入荷でいかに要望に 応えていくかが大変だったようである。自分の家で使う分には商店を営んでいたということもありそれほど困らなかったが、必然的に使う量は減らさざるを得な かったという。

 ただこういったことがあったが、その当時の母の石油ショックに対する印象はさほど強くないとのことだった。その要因として、中学生ということも ありよく状況が飲み込めていなかったことと、生活に支障が出るほど特別困ったということはなく物資は減っていても自分の家で使う量が減ったという程度の印 象しかなかったからではないか、という事を挙げていた。

→「ペナ」さんの感想:今回聞き取りをしてみてやはり物資の不足が深刻であったことを改めて認識させられた。実際はトイレット ペーパーなどは石油ショックと関係なかったというのが現在の見方だが、母の話から想像すると混乱は大きかったようである。また商店自体は10年以上ほど前 に店を閉めてしまっているが石油ショックを消費者としててではなく、品物を仕入れる側の体験も少し聞けたことは今までなかったので新鮮だった。

 また母の石油ショックに対する印象を聞いたときには少し驚いた。今まで石油ショックというと日本国民が物資を求めて争うというような今ではあま り考えられないような状況を想像していた私にとってはイメージが大きく変わるものであった。母自身も言っていたが商店を経営していたことが大きな要因では ないかといっていた。このように一般的にいわれている角度以外から石油ショックを見ることができたのは良い勉強になったと思う。

・オイルショック当時10歳くらいの小学生で、新潟県旧北蒲原郡中条町(現在の胎内市)に住んでいた母(2021年度後期・日本政治論「IOA」さん)
 幼馴染の家に行った際、トイレットペーパー(当時は四角いチリ紙だったらしい)が玄関に山のように積まれていたことがとても印象的だったそうだ。祖父母は買いだめをしなかったそうで、自分の家は買わなくても大丈夫かと、心配になったらしい。

 また、当時は車も1台家にあればいい方で、地方では今ほどは普及していなかった。車を持っている家庭は、商売しているか経済的に余裕のある家庭だった。ガソリンなどの燃料よりも、生活に密着している洗剤やトイレットペーパー、ティッシュペーパーが買いだめの対象になったとのことだった。

→聞き取りをしての「IOA」さんの感想:地方においても生活用品の買いだめが起こっていたことを知ることができた。当時は現在と比べて、自動車が一般家庭に浸透していなかったため、私の祖父母も自動車免許を持っていなかった。現代社会においてありとあらゆる所で石油が使用されていて、私たちの日常生活の中で欠かせないものとなっている。もしも現代の日本で当時のオイル・ショックが起こったら、当時以上に混乱が起こるのではないかと感じた。


・1972年当時6歳で三重県に住んでいた母/2020年度後期・日本政治論「NKR」さん
 

・田中角栄について
  田中角栄が政治をしていた頃は記憶にない。しかしながら、ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたニュースを見たとき、「首相が捕まることがあるのか」と驚 いたらしい。列島改造論についても、授業で習うようで田中角栄は歴史上の人物・教科書の人物というようなイメージだったらしい。
・石油ショックについて
  第一次石油ショックについて、母方の祖母がトイレットペーパーやラップフィルムが買えないと言っていたことが記憶に残っていると言っていた。また、当時母 が住んでいた地域は古紙を分別するとトイレットペーパーがもらえていたが、石油ショック後、数が減ったりもらえなくなったりしたことがあったそうだ。石油 ショックで周りの大人達が「日本が終わってしまうかも知れない」「景気が悪くなる」と口々に言っていたことが怖かったと話していた。
→ 「NKR」さんの感想:田中角栄が政治の場にいたとき母は小さかったので列島改造論については詳しく聞くことができなかったが、後の小泉改革が始まるとき に列島改造論には否定的になったと話していた。有権者への利益誘導は政治家ならばある程度は発生すると思うが、公共事業による利益誘導はやりすぎだと思っ ていたらしい。また、石油ショックの話を聞き、私がイメージするのはトイレットペーパーの買い占めの映像だが、母は大人が暗い話をしていることが印象に 残っているという話を聞いて、興味を持った。


<石油ショックと農家>

当時は小学生中学年前後 母/当時は福島県郡山地方在住 農家(稲作・葉タバコ。馬小屋あり)/2007年度後期・日本政治論「箱ティッシュ」さん
 「トイレットペーパーを必死に買いだめする人々をTVでみた」以外には、特にそれを意識させられる記憶は無いという。特に家庭 が裕福だというわけではなかったようだが、トイレットペーパー(家ではちり紙を使用していたとのこと)、ノート、灯油、ガソリンその他石油製品を家庭、学 校で特別に節約したことや、節約するように言われたことは無かったという、TVに映る、商品を買いだめする人々がなぜ必死の様子なのか不思議に感じていた らしい。最も、普段から無駄遣いには寛容ではなかったらしいが、大人たちにも差し迫った様子はなかったという。

 聞き取りをすすめるうちに、母の地域では灯油やガソリンを一年分ほどドラム缶で購入しており、それもほとんど使用することがなかったということがわかった。もともと、石油製品は生活とほぼ無縁と言えるほど少なかったという。

 列島改造論については、当時、道路の一部が舗装されたらしい。バイパスもできたそうだ。 

 「角さん」については、「偉い人」程度の認識しかなかったようである。まわりの大人達からも、話題に上った記憶はないとのことだ。政策に関しても、何かしてもらったという実感はないとのコメント。

→「箱ティッシュ」さんの感想:「石油ショック」の影響がほとんど無かったのは意外だった。幼少の頃ゆえに自覚がなかったのか、 農村部には影響が少なかったのか、対象者の地域の生活様式によるのかは不明だが、石油製品に頼るところが少なかったのと、ある程度地域の中で自給が成り 立っていたことが原因ではないだろうかと考えている。

 母の実家である湖南町は猪苗代湖の辺に位置し、周りは山に囲まれている。はっきり言って地理的にはかなり辺鄙なところだがバイパスが通り、道路の舗装がされている。列島改造論の執念を感じる。
 

<石油ショックとコタツ>
・1972年当時に30歳前後で酒田にいた祖父母/2020年度後期・日本政治論「KUK」さん
 
<1972年当時は30歳だった母方の祖母>
 当時は、酒田市に住み、専業主婦をしていた。
  田中角栄に関しては、その業績の中で、新潟まで新幹線が通るようになったことが印象的で、偉大な人だと思っていた。新潟から少し離れている酒田市の若宮町 とはいえ、東京に行くまでの時間が結構短縮されたので、若宮町に住む人々にも影響を与えたものだった。ただ、『列島改造論』は読んだことが無かった。
 石油ショックに関しては、あまり影響がなく、田舎は人が店に殺到するといった事は無かった。エネルギー源としても、こたつで足りていたので問題なかった。物価上昇もそこまで影響がなく、そんなもんだと思っていた。
<1972年当時は35歳だった父方の祖父と、29歳だった父方の祖母>
 祖父母は酒田市に住み、祖父は市役所勤め、祖母は専業主婦をしていた。
 田中角栄に関しては、そこまでの印象が無かったが、日中共同声明で国交を正常化した業績が最も印象に残っている。また、その証として、中国側から送られてきたパンダ(カンカンとランラン)のイメージも当時の記憶としては強かった。『列島改造論』は読んだことが無い。
 石油ショックについては、薪ストーブとこたつを使っていたので、あまり影響がなかった。トイレットペーパーは使っていたが、困るほどではなかった。物価上昇も同様だった。
 また、当時の記憶として、全国的には車社会になりつつあったようだが、酒田市の新堀では、まだ車社会ではなかったというものがある。
→聞き取りを終えての「KUK」さんの感想:田中角栄は、田舎では印象強い人だと親しみやすいその風貌や言動、政策内容や『列島改造論』の内容から考えていたので、実際に母方の祖母のように偉大な人だと思っていた人が多かったのではないかと感じる。
  また、聞き取り対象には入っていないが、自分の父親に田中角栄について聞いてみたところ、現在でも熱烈な支持者が知り合いにいるらしく、その点からも地方 での人気は高かったのではないかと感じる。石油ショックについては、田舎はあまり影響がなかったようで、石油ストーブを使っておらず、こたつなどで足りて いた家庭は当時多かったのではないかなと感じた。物価上昇も急激な変化というほどでもなかったようで、この点を考慮すると、地方では、田中角栄の人気とい うのは衰えておらず、主に影響を受けた都会に住む人々が支持しなくなったために相対的に人気が無くなったのではという考え方もできるなと思った。
<石油ショックとお米>
1972年当時は22歳で山形県中山町で専業主婦をしていた祖母/2020年度後期・政治学「三角莇」さん
 石油ショックではトイレットペーパーの買い出しがすごく大変だった。ティッシュペーパーはその当時ではまだ高価なものだったらしく、ティッシュペーパーについては困らなかったらしい。お米の買い占めも大変だったらしい。日本のお米が品薄状態で、タイ米が輸入されたらしいのだが、タイ米は冷めると美味しくないらしい。しかしタイ米と一緒じゃないと国産のお米は買えなかったので、仕方なく食べていたらしい。
 祖母の家には車が一台あり、ガソリンを詰めるのが大変だったらしいが、お風呂やストーブ(囲炉裏)は薪や炭で補っていたため、灯油などは困らなかったらしい。
→「三角莇」さんの感想:オイルショックはすごく大変なことだと、教科書やまわりの大人から言われていたので大変だと勝手に決めつけていた。しかし実際に聞いてみるとそんなに困っていなくてびっくりした。というよりかは、まだ囲炉裏や薪で生活していることにびっくりした。祖母がその頃住んでいた家は未だに残っているが、冬とかは隙間風が入ってきそうだったし、絶対に部屋が温まらなさそうだった。風呂場は外に出ないと無いし、すごく不便そうだと思った。


<ロッキード事件>

当時15,6歳 高校1年生 母/当時は北海道渡島半島在住/2007年度後期・日本政治論「リラックマ」さん
 ロッキード事件について。アメリカのロッキード社の航空機の売り込みに際し、5億円を受け取った田中元首相が逮捕された事件。 ロッキード側の国会尋問において「記憶にありません」を連発していたのをよく覚えている。その中で、奥さんの証言に注目が集まり、マスコミのなかでは「蜂 の一刺し」と話題になっていた。国の最高指揮官がこのようなことをしていたことにとても驚いた。今の時代でも自分の権力を利用した贈収賄事件が後を絶たな い。堅実に生活している国民は何を信じて良いか分からなくなる。
→「リラックマ」さんの感想:講義で見たビデオで、「記憶にございません」と繰り返しているのを私はすごく印象深く覚えていた ので、母親の口からも同じ内容を聞いて、現実味が増した。田中元首相を支持していた人たちのなかでも、新潟の人たちが特にショックだったと言っていたらし い。いろいろやってくれていたからこそ、複雑な気持ちだったのだろう。
<リーダーシップ>
・当時20代 父、山形県在住(2010年度後期・日本政治論「ぷにたま」さん)
 田中角栄はリーダーシップの強い首相だった。角栄の政策の「日本列島改造計画は印象に残っているが、父の住んでいたあたりではあまり推し進められなかったため、その当時はあまり道路や新幹線はつくられていなかった。
→「ぷにたま」さんの感想〕現在の日本の首相はリーダーシップが弱いとよく批判されているので、田中角栄のように強いリーダーシップを印象づける首相が求められていると感じた。
<元気>
・1972年当時32歳で仙台市に住んでいた祖母/2020年度後期・日本政治論「YKT」さん
  祖母からは、田中角栄の当時のイメージなどについて聞くことが出来た。今となってはロッキード事件などの汚職によって辞職してしまい、彼の政治のやり方に ついて様々な意見に分かれているが、当時の田中角栄については、決断力があって、日本のために色々策を尽くしてくれることが感じられて、羽振りの良い人と いうイメージだったと話している。また、講義の映像でも見たがテレビで演説をしている姿がとても印象的だったという。テレビへの露出も多く、よく番組のな かで演説を行っていて、記憶に残りやすい声だったと感じていた。安倍さんや菅さんとも違って、顔や表情に元気があったという印象が強いという。
→ 「YKT」さんの感想:講義で田中角栄について学んだときには、急進的な政治や角栄の周りの金銭問題などからあまり良いイメージは持たなかったが、祖母の 話を聞いた感想としては、講義で持った印象とは逆で、かなり好意的だったことが意外だった。政治への取り組みに関しては、確かにかなり積極的に取り組んで いるように感じた。

 また、テレビで話してる様子は、講義でも一部聞いたが、祖母の言う通り、記憶に残る強い声だと感じた。このような部分が、当 時の人々を引きつけるカリスマ性に繋がっているのだろうか。最終的には悪印象が残る形で田中政権は幕を閉じてしまったが、そのときから現在に至るまで多く の人の記憶に残っている首相の一人であり、今後の政治家とも比べられていくのだろうと私は感じた。

<パンダ>
・1972年当時に10歳ぐらいの小学生で、新潟県旧北蒲原郡中条町(現在の胎内市)に住んでいた母(2021年度後期・日本外交論2「IOA」さん)
 日中の国交正常化で上野動物園にやってきたパンダについては、小学生だったため、詳しい内容は覚えていない。「すごいことが起こっている」ということだけは覚えているとのことだった。

 小学生だった母にとっては、政治の話題よりも日本にパンダが来ることが印象に残っているそうだ。当時は画期的で、地方でもパンダブームが起こったほどだ。東京からのお土産は「パンダのぬいぐるみ」だった。雪ダルマ型で大きさは10センチから15センチくらいで、ふわふわしているものだったらしい。
 

→聞き取りをしての「IOA」さんの感想:誰からみても、日本と中国の国交正常化は印象に残ることだったことを実感した。しばしばニュースで上野動物園のパンダについて報道されることがあるが、現在でもパンダブームの名残は残っているように思えた。

《以上です》