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「日本外交論演習」の記録
2015年度期末論文

 

文責:松本邦彦
最終更新時:2017年10月24日(火)/増築:2017/10/24)

◎期末論文題目リスト(&目標規定文)
《4年生》
「環境外交と日本の関わり方」
 昨年の12月に、パリにて、地球温暖化を防止するためにすべての国が参加する枠組みである「パリ協定」が採択された。「パリ協定」では、世界が協力して地球温暖化に取り組む姿勢が明確にされ、温暖化対策に向けた交渉は大きな前進を果たしたと言える。
 振り返れば、92年の地球サミットから始まった温暖化交渉は、各国の利害が一致せずに一進一退の攻防が繰り広げられ、国益をかけた経済交渉とも揶揄されてきた。また、多数の問題を抱える「京都議定書」やコペンハーゲン会議の失敗など、紆余曲折を経て「パリ協定」に至ったという経緯もある。
そのような中で、日本は温暖化交渉にどのように関わっていったのかを見ていく。日本は、新たな枠組みの提案をいち早く行い、その枠組みの一本化を強く求めるなど、結果として「パリ協定」が日本の希望に沿う形となって採択される結果となった。これらの行動は、議定書における、苦い経験からくるものであると考える。
「薩長に見る攘夷からの転換」
江戸時代後期、いわゆる幕末は、尊王攘夷思想の広まり、開国や討幕という大きな出来事があった時代であった。当時尊王攘夷勢力の強かった藩としては薩摩藩と長州藩が挙げられる。後に土佐藩と肥前藩と合わせて藩閥と呼ばれる明治政府の中心的立場となる藩である。薩摩も長州も、初めは開国を決めた幕府に反発し、外国勢力を追い払おうと行動していたが、途中で外国と協調する道を選択した。その攘夷を改めたきっかけとなったのが薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件である。どちらとも、実際に外国と戦ったことで力の大きさを思い知り、攘夷の不可能を痛感したと言われている。これらの2藩の攘夷からの転換ははたして全く同質のものであるのか、それとも多少なりとも違いがあるのかとの疑問が生まれた。
 ここでは、尊王攘夷思想の成り立ちを念頭に置き、上に挙げた2つの事件が各藩に与えた影響や藩内外の動き等を述べ、最終的に各自の転換はどういったものであったのかを検証していく。
《3年生》
「尖閣諸島を巡る動きを追って」
近年、アジア市場に対する関心度が高く、日本も中国に向けて進出する会社も沢山ある。また経済界も相互交流を行なっており、結び付きが強くなっている。しかし、ある問題によって両国の交流が停滞しつつある。その原因の一つだと思われるのは、尖閣諸島問題である。この問題は1968年の国連アジア極東経済委員会による調査の結果、中東の国と同等の豊富な石油資源が埋蔵されていることがわかったことによって、何にもないと思われていた島々が一転として“宝の島”となり、1970年代から中国・台湾が所有権を主張し今も未解決の問題である。
 近年では尖閣諸島の攻防に対する度合いが高くなっており、船の衝突などの規模の大きい事件が後を絶たない。北朝鮮やIS等といった世界の脅威に対抗するためには、協力が、不可欠であるにも関わらず、日本と中国の足並みが揃っていないように思える。最近は経済において若干の陰りが見えてきているものの、国際連合における常任理事国である中国との関係をこのままにしては、日本の利益にはならない。そこで本稿では、これまでの尖閣諸島を巡る動きを中心に、中国・台湾・日本の主張をまとめて論じていきたい 


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