平成20年度後期「ドイツ文化論」講義録


※「ドイツ文化論」=人間文化学科の専門科目。前期あるいは後期のみの開講(今年度は後期)。
             2年生以上が履修可能。受講者34名
             授業テーマ:「戦後ドイツの諸問題」
              (戦後ドイツの主要な問題にふれながら、現代ドイツの全体像を把握する。同時に日本における
               類似の問題にも目を向けさせるきっかけを提供する。)



第1回(10月1日) ガイダンスのため省略
第2回(10月8日) 終戦と戦後のブレヒト
第3回(10月22日) クリスタ・ヴォルフ『残るものは何か?』をめぐって
第4回(11月5日) ホイスの講演と「基本法」の精神
第5回(11月12日) 非ナチ化とゲーテ・ハウスの再建
第6回(11月26日) 記念碑を建立すること、歴史を記憶すること――ベルリンにおける過去の痕跡
第7回(12月3日) 犠牲者としての「過去」の記憶
第8回(12月10日) グロプケ問題とアイヒマン裁判
第9回(12月17日) 中間試験
第10回(1月14日) アウシュヴィッツ裁判、学生運動、ブラント――60年代〜70年代概観
第11回(1月21日) マルティン・ヴァルザー「私たちのアウシュヴィッツ」
第12回(最終回、1月28日) ベルンハルト・シュリンク『朗読者』――終わらない戦後



第2回 終戦と戦後のブレヒト

 1933年以来亡命生活を続けていた劇作家ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)は、多くの国々を転々とした後、1949年ついに東ベルリンに居を定める。東独でのブレヒトは、何度期待を裏切られながらも、より完成された共産主義国家を実現するため、政府への要求をあきらめることはなかった。
 ブレヒトのこのような態度は、「命令された社会主義でも、まったく社会主義でないよりはましである」という彼自身の言葉によって、ある程度は納得できるものになるのかもしれない。しかし、今回の授業では、それが彼の共産主義国家論にもとづいてもいたことを説明した。この共産主義国家論は、戦後東独を選択した他の知識人にも共通する部分がある。復興に向かって歩み出した終戦直後のドイツを、同時の知識人たちはどのような思いで見つめていたのか、その理解への一助となればと思う。



第3回 クリスタ・ヴォルフ『残るものは何か?』をめぐって

 ベルリンの壁が崩壊した翌年の1990年6月、東独を代表する女流作家クリスタ・ヴォルフ(1929-)はある小説を出版する。『残るものは何か?』である。国家により日常的に監視されている作家の苦悩や心情を描いたこの作品は、その出された時期ゆえに、時代遅れの自己弁明である等の批判を受けるにいたった。
 今回の授業では、そのような批判がどれだけの妥当性をもつのか、妥当性に欠けるとすればどこに問題があるのかについて考察した。具体的な問題としては、歴史の結末を知っている「高み」からの、いわゆる「後知恵」という印象をまぬがれないこと等を指摘した。
 歴史の結末に強く影響された場合、〔歴史的勝者としての西〕、〔歴史的敗者としての東〕というステレオタイプに陥りかねない。それを防ぐためには、細部にまで分け入る観察が不可欠である。次週以降、〔歴史的勝者としての西〕を中心に、その「細部にまで分け入る」作業を開始する。(だからといって、東を勝者としたいわけではない点に注意。)



第4回 ホイスの講演と「基本法」の精神

 1952年12月、ドイツ連邦共和国初代大統領ホイス(1884-1963)は、ベルゲン・ベルゼン収容所跡地で演説を行った。ホイスは、この中で、収容所での大量虐殺は「知らなかった」ですまされるようなものではないと指摘した上で、ドイツが国家として犯した犯罪はドイツ全体で償わなければならないという、「集団的罪」の考え方を展開している。また、「相手にも罪はあるのだ」と主張してドイツの罪を相殺しようとする立場に対して、痛烈な批判を行っている。
 1949年5月に発効した「ドイツ連邦共和国基本法」も、このような歴史への反省を多分に反映している。今回の授業では、侵略戦争の禁止を謳った第26条、政局の不安定さがナチス政権を招いた反省から盛り込まれた第67条(「建設的不信任決議」)などについて解説した。
 しかし、ホイスの指摘からも明らかなように、戦後の西ドイツが、何の問題もなく、過去への反省、および復興への道を歩み出したわけではない。戦後西ドイツの歩みには、たえずさまざまな矛盾がつきまとっていた。次回、その矛盾の内容を明らかにしていくところから始める。



第5回 非ナチ化とゲーテ・ハウスの再建

 西側占領3ヶ国のうち、もっとも積極的に非ナチ化にのりだしたのはアメリカだった。米軍政府は、ナチスとの関係などを質すアンケート調査を実施し、審査の結果、公務員の3分の1を解雇した。しかし、この非ナチ化のプロセスも、西ドイツを西側陣営に取り込む必要性が増していくにつれて手ぬるいものとなり、1950年ついに終了が宣言されることになる。
 この顛末は大きな矛盾を抱えている――戦争を引き起こした過去が罰せられ、清算される方向に向かいながらも、それと同時に西ドイツはまたしても新たな戦争の枠組み(冷戦構造)に取り込まれていく(この点に関しては東ドイツも同様であるが、ここでは西に限定して話を進める)。つまり、過去の罪が許されれば許されるほど、それは西側ブロックに取り込まれることを意味し、西側ブロックに取り込まれれば取り込まれるほど、冷戦構造の枠の中に入り、その固定化に荷担することになったのである。
 被災したフランクフルトのゲーテ・ハウスの再建計画に関わる種々の議論も、単なる再建に関わる賛成・反対ではなく、ドイツの過去をいかに受け止めるかにおけるスタンスの違いと見るべきである。このように、国家レベル、民衆レベル双方において、西ドイツは矛盾や葛藤をかかえながら戦後の歩みを始めたといえる。


第6回 記念碑を建立すること、歴史を記憶すること――ベルリンにおける過去の痕跡

 前回のゲーテ・ハウスの再建をめぐる話題から議論を一般化し、歴史を記憶するために記念碑を建てるということはどのようなことなのか、また、現存する記念碑は本当に歴史を記憶する目的を果たしているのか、もしかしたら建立者(時には個人、時には国家)に都合のよいメッセージを発するだけのものになっていないか、等の問題について、実際の写真を資料として用いながら、受講者に考えるきっかけを提供した。
 具体的には、ベルリン・ポツダム広場の「ベルリンの壁」跡、その近くに近年建てられたユダヤ人のための記念碑等の写真を利用した。ただし、今回の授業で紹介した考え方は、授業者および研究者の見方にすぎない。学生は、なお自ら考え、自分なりの答えを持ってほしい。
 ドイツの事例を通して、学生にさまざまな問題について考えるきっかけを与えることを目的として、この授業を行っている。しかし、鉄仮面のように微動だにしたい、あるいはテーマに関わらず開始早々からお休みになられる学生を刺激するのは容易なことではない。この授業に興味があるから履修登録をしたというたてまえなのだが・・・


第7回 犠牲者としての「過去」の記憶

 ナチの時代や、ナチズムを招いてしまった世代に対して、痛烈な批判を行っている文学作品は数多くある。今回は、その中でも、ハインリヒ・ベルの『9時半の玉突き』(1959年)と、ジークフリート・レンツの『国語の時間』(1968年)を取り上げた。前者では、一家を守ることができず、つぎつぎと家族を死に至らしめた父親、後者では、盲目的に命令に付き従うことしかできなかった警察官の父親が、それぞれ批判の対象となっている。
 しかし、いずれの作品でも、それら責任ある父親の行動の犠牲者は、その息子たちである。つまり、加害者、被害者はどちらもドイツ人である。国家としてのドイツを加害者なのだとすれば、被害者は国外にもいるはずである。両作品とも、この点には触れられていない。
 このことをもって、両作品の文学としての価値を否定するものではない。むしろ、文学作品としての価値は高い。とはいえ、犠牲者意識が、多少なりとも影を落としていると読むことはできないだろうか。両作品とも、手には入りにくいが、翻訳はある。この先は学生自身が考えてみてほしい。


第8回 グロプケ問題とアイヒマン裁判

 ハンス・グロプケ(1898-1973)は、1953年、首相府次官に就任し、アデナウアー首相の右腕として、政府内の人事にまで多大な影響力をもつにいたる。しかし、ナチス政権下で担当していた職務のために、彼は大きな批判を浴びることとなる。彼は、反ユダヤ人政策の立案にたずさわる人物であったからである。ところが、グロプケの手腕を高く買っていたアデナウアーが彼をかばい、彼はそのまま政府内で絶大な影響力を行使し続けることになる。
 60年代になると、「アウシュヴィッツ裁判」をはじめとする一連のナチ裁判によって、ドイツはふたたび自らの「過去」と直面せざるを得なくなる。グロプケの件はうやむやになったとはいえ、この問題は、その後訪れる「過去」との新たな対決へ向けての第一歩として位置づけることができるだろう。これらの動きに触発された人々のなかに、戦後ドイツを代表する作家マルティン・ヴァルザーがいる。次回以降、彼のエッセイを中心に、彼の「過去との対決」の過程を見ていくことにしよう。


第10回 アウシュヴィッツ裁判、学生運動、ブラント――60年代〜70年代概観

 ヴァルザーのエッセイを読む前に、60年代から70年代にかけての西ドイツの状況を概観した。今回の授業では、この時期を代表する出来事として、1963年に始まり65年に結審した「アウシュヴィッツ裁判」、68年の学生運動、69年から始まるブラント政権、の3つを取り上げ、ドイツの戦後史における意義などを解説した。


第11回 マルティン・ヴァルザー「私たちのアウシュヴィッツ」

 マルティン・ヴァルザーが、1965年に書いたエッセイ「私たちのアウシュヴィッツ」を取り上げた。このエッセイは、彼自身が、いわゆる「アウシュヴィッツ裁判」を傍聴した体験をもとに執筆したものである。この中で彼は、裁判について報道をする際の、メディアの問題を指摘している。ヴァルザーによれば、メディアは、裁判での証言によってつぎつぎと明らかになるアウシュヴィッツの衝撃的な事実を、ただやみくもに報じているだけである。しかし、これこそが、人々とアウシュヴィッツを分け隔て、「自分は関係ない」という意識を作り出す元凶なのだという。報じられる事実が衝撃的であればあるほど、現実味は薄れていくからである。
 ところが、このエッセイでは、アウシュヴィッツをどのように位置づけ、理解するかという点において、混乱が生じている。つまり、アウシュヴィッツを1回限りの異常な出来事と捉えるか、これまで繰り返され、今後も繰り返し起こる出来事として捉えるか、という2つの立場の間で揺れ動いているのである。授業では、これをヴァルザー個人の問題としてだけではなく、同時に、ドイツ国内で展開されているアウシュヴィッツをめぐるさまざまな主張の間の揺れとして見ることができると説明した。


第12回 ベルンハルト・シュリンク『朗読者』――終わらない戦後

 1995年に出版され、世界的ベストセラーとなった『朗読者』を取り上げた。戦時中強制収容所で看守をしていた女性ハンナと、主人公ミヒャエルとの愛を描いたこの小説は、多くの称賛を得た一方、同時に多くの批判を受けることにもなった。その批判のうちの1つに、以下のようなものがある。犯罪者であるハンナにあまりにも温かい目が注がれすぎているのではないか、というものである。確かにそう取れる箇所がある。しかし、そのような批判で片付けてしまってはいけない。
 この作品には、「過去」の単純な糾弾への批判がある。ドイツの「過去」の罪と自分を切り離して、「自分はまったく関係ない」という立場からただ糾弾の声だけをあげることへの批判である。罪を犯した者が自分と関わりのある者だった場合、そう簡単に自分と切り離して捉えることはできないはずだ、という考えがその根底にある。そのように見た場合、ハンナへの温かい目は、犯罪者に温かい目を注げというメッセージではないことが分かる。そうではなく、平板な反省では足りないものがあることを示しているのではないだろうか。
 この作品から読み取れるように、単なるストレートな反省では克服しきれない何かがまだ残っているのだとすれば、ドイツにとっての戦後はまだ終わっていないのであろう。





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