平成25年度「人間文化入門総合講義」講義録

※「人間文化入門総合講義」=5つの教育コースがそれぞれ3コマずつ担当。この3コマは何人で担当してもかまわない。選択科目であるが、1年生から受講でき、2年次から所属するコースを決める参考になるので、受講者数は多い。私は、「グローバル文化学コース」出講の教員として、割り当ての3コマ中2コマを担当した(残りの1コマは、中国文学専攻の教員による「漢字文化圏」について)。


テーマ:ドイツから見た東西南北
ドイツは、地理的に見れば、ヨーロッパの中ではむしろ西の方に位置する。しかし、文化的な側面から見た場合、イギリスやフランスと同じ枠組みで扱うことは到底不可能である。だからと言って、北欧でも、東欧でも、ましてや南欧でもない。本授業は、そのようなドイツの特殊な位置からヨーロッパをぐるっと見回してみようという試みである。


渡辺担当第1回:ドイツから見た北と東
渡辺担当第2回:ドイツから見た南と西


(1)北
 ヴィルヘルム・グリム(1786~1859)は、『ニーベルンゲンの歌』研究をきっかけに、北欧にも興味を抱き、熱心に研究を始める。彼は、現在の状況を知るために、自国の古代を研究することは重要であると考えていたが、彼にとってそのつぎに重要なのは、北欧であった(彼の関心は、あくまで文学を通してのものだった)。北欧は、ドイツと同じ「ゲルマン的要素」を持ち、しかもそれが「純粋な姿」で残っている場所だったからである。
 授業では、この後、初め文学への興味だったものが、19世紀半ばから世紀転換期にかけて民族主義が高揚していく中で、徐々に北欧そのものが「ゲルマン民族」のルーツとして理想化されていく過程を説明した。


(2)東
 13世紀、「ドイツ騎士団」は、ポーランド貴族の招きで、バルト海沿岸に領土をもらう。その後、ベルリンを首都とする「ブランデンブルク」との統合、ポーランド分割などを経て、バルト海沿岸に広大な領土を持つ「プロイセン」が出来上がっていく。プロイセンはさらに勢力を増し、19世紀後半になると、西および西南にあった小国をつぎつぎと吸収し、名実ともにドイツの盟主となる。しかし、20世紀に入ると、この強大な「ドイツ」は、東から崩れていくことになる。まず、第1次大戦の敗北によって、東西60キロに及ぶ「ポーランド回廊」が作られ、これを挟んでドイツの領土は分断される(イメージとしては、「回廊」より東にある「東プロイセン」だけが分離されたような格好)。
 第2次大戦で、ヒトラーはこれらの領土の奪還を目指すが、ドイツが劣勢となり、東からソ連軍が迫ってくると東プロイセンの人々は、着の身着のままで西への逃避行を余儀なくされる。結局、戦後処理によって、ドイツは東プロイセンどころか、オーデル川およびナイセ川(いわゆる「オーデル・ナイセ線」)以東を放棄することになる。ヒトラーが「劣等民族」と言い、ドイツが猛威をふるったのが東だとするなら、そのペナルティとして失うこととなったのもまた東だった。着の身着のままで逃げた人々は、土地は仕方がないとしても、せめて家財道具などの返還を求めて訴訟を起こしているが、うまくは行っていない。


(3)南
 トーマス・マンの『ヴェニスに死す』(1913)を取り上げた。主人公アッシェンバッハは、突然旅への衝動にかられるが、ここでの「旅」は、あまりにも規律や秩序に凝り固まった市民社会からの逃亡を意味する。その向かった先がイタリアという「南」だったとすれば、「南」は、ドイツの市民社会とは真逆の、人間の本来の感情・欲望が解放される場であると言える。
 ここで興味深いことに気づく。「北」にも「南」にも、「根源」のイメージが重ね合わされているのである。とはいえ、「何の根源か」という点に関しては、多少の違いがある。つまり、「北」はナショナリズムと融合した「ゲルマン民族」の根源、「南」は人間的生の根源であった(そう言えば、ゲーテが「原植物」(彼は、すべての植物は唯一つの「原植物」から発展してきたものだと考えた)の存在を確信したのも、イタリアであった)。


(4)西
 パトリック・ズュースキントの長編小説『香水』(1985年)を取り上げた。18世紀のパリを舞台に、異常に鋭敏な嗅覚を持った主人公グルヌイユが、好きな臭い(決まって少女)があると、その少女の命を奪って、臭いをコレクションしていくという、きわめて奇妙な物語である。つまり、この小説には、「フェティシズム」(もともとは「異常性欲」の意。しかし現在では、強い執着一般に使うようになった。ここでも後者の意味で用いる)が描かれていることになるが、では、なぜ「フェティシズム」のモチーフが、パリを舞台に描かれなければならなかったのだろうか(授業では、もう一つドイツ文学でパリを舞台に「フェティシズム」をモチーフにしている作品を紹介し(E.T.A.ホフマンの『スキュデリー嬢』)、この問いに説得力を持たせている)。
 『香水』と『スキュデリー嬢』には、他にも共通点がある。パリの地名や、フランス人の名前の記述などが、読者が辟易するほど具体的で詳細なのである。本授業では、ここから大胆な仮説を披露してみた。つまり、主人公だけでなく「語り手」*もまた、フェティシスティックなのではないか、ということである。語り手のフェティシズムが向かう先は、パリであり、フランスである。ドイツは、自らより劣る「東」は手に入れることができた(最終的には失ったが)。しかし、ドイツより先進的で、洗練された「西」はそう簡単にはいかない。そうした憧れの対象であると同時に劣等感の源となる「西」を、たとえ想像の世界の中だけでも自由自在に操りたい・・・取り上げた2作品から見える「西」への思いとは、そんなものなのではなかっただろうか。

*
文学研究では、「作家/作者」と「語り手」を明確に区別する。物語を語っているのは「語り手」であって、「作家」ではない。さまざまな考え方があるが、ここでは独立した「語り手」であっても、作品が書かれた1985年のドイツの精神を共有する者として見る。



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