日本比較文学会東北支部の比較文学研究会(2013年7月27日)でワークショップ「 『ゴンドラの唄』の比較文学」が開催されました。
「日本比較文学会東北支部会報」19 号に掲載された仁平政人氏(弘前大学教育学部)によるご報告を以下に転載させていただきます。

 

ワークショップ 「『ゴンドラの唄』の比較文学」

司会・コーディネーター 伊藤豊
基調報告 相沢直樹
パネラー 古河美喜子
パネラー 森岡卓司

 ワークショップ「『ゴンドラの唄』の比較文学」は、支部会員である相沢直樹氏の著書『甦る『ゴンドラの唄』 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(新曜社)の刊行を受けて企画されたものである。同書は、「いのち短し、恋せよ、少女」という一節で知られる吉井勇作詞『ゴンドラの唄』について、その成立の背景・文脈や特性、また戦後から今日のサブカルチャーに至るまでのゆるやかな受容・拡散のありようなど、多岐に亘る問題を柔らかな語り口で論じたものである。幅広く魅力的なトピックに富んだ本書のなかでも、ワークショップでは、特に比較文学的な問題に焦点を据えて発表と討議が行われた。

 まず相沢氏の基調報告では、吉井勇の詩の源泉の問題について、直接的なソースと見なせる森鷗外訳『即興詩人』のみならず、ホラティウスに始まる広範な《カルペ・ディエム》(今を楽しめ)の脈絡や、「椿姫」、与謝野晶子『みだれ髪』、ヒポクラテスの言葉「芸は長くいのち短し」などとの関わりが論じられた。人口に膾炙しているこの歌が背後に抱える重層的なコンテクストを、ご著書では触れられなかった点をも含めて明快に提示するご発表は、『ゴンドラの唄』の問題の面白さを鮮やかに示すものであった。

 つづく古河美喜子氏の発表は、『ゴンドラの唄』の源泉の中でも《カルペ・ディエム》の問題に焦点を据えて、その広がりを一七世紀イギリスの詩人ロバート・ヘリックを中心に紹介し、また日本におけるヘリック受容などを論じるものであった。特にヘリックの詩に関わって、一見享楽的な現在の生の意識を示す《カルペ・ディエム》が、「明日死ぬかも知れない」という感覚に支えられていること、すなわち《メメント・モリ》と一体性を持つ側面があることが指摘された。

 また森岡卓司氏の発表では、主に『ゴンドラの唄』が歌われた新劇『その前夜』、およびその原作たるツルゲーネフの小説と日本近代文学との交通について、現代のサブカルチャーも参照項としながら考察が行われた。第一に、『その前夜』の主人公たちが全体的には〈「今ここ」からの越境〉を志向しながら、終盤で「今ここ」への執着(「ゴンドラの唄」にも示される)を持つことで、「死」への越境を迎えていくという展開を踏まえて、《カルペ・ディエム》と《メメント・モリ》との関係が問われた。また、ツルゲーネフ『その前夜』と関わる小説として田山花袋「蒲団」を取り上げ、後者が、〈越境する女〉と〈出発できず滞留する時に立ち止まる男〉という構図を『その前夜』から取り出しているということが指摘された。以上のように、各発表においては、『ゴンドラの唄』の成立の関わる文脈の問題が、通時的・共時的双方の視点で広く柔軟に追求されていたと言えるだろう。

 以上の発表を受けて、討論においては、《カルペ・ディエム》と《メメント・モリ》との関係性の問題から、源泉にあたる作品と『ゴンドラの唄』との具体的な差異(例えば『ゴンドラの唄』の「黒髪」と『即興詩人』の「白髪」)、受容=翻訳を通した文化の変容(単純化・ポピュラー化)の問題、また大正期文学とロシア文学との関わりなど、多様な論点について極めて活発な議論が交わされた。この議論の広がりは、特定の国や時代を超えた文化的な水脈を受けつつ、大正期日本において固有のポピュラリティを持つ形で成立した『ゴンドラの唄』の問題の大きさ・面白さを鮮やかに語るものであり、その意味でも、まだまだ討議を聞いていたいという思いを抱いた。文化テクストを探究することの意義と愉楽を深く感じさせてくれる、まことに得がたい機会であったように思う。
(仁平政人)

<「日本比較文学会東北支部会報」19 号(2014.3.1)より

甦る『ゴンドラの唄』(紹介ページ)