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スキアヴォーニに死す

― 『その前夜』におけるヴェネツィアの場面をめぐる考察 ―

相沢 直樹   

Copyright © AIZAWA Naoki 2003. All rights reserved.


はじめに(注釈)
 長篇小説三作目に当たる『その前夜』(1860)においてツルゲーネフは,祖国の解放・独立のために闘おうとするブルガリア人留学生インサーロフを登場させた。それまでのロシアが知らなかった新しいタイプの男性の強い意志と行動力に惹かれた女主人公エレーナは,彼と秘密裡に結婚した後,悲しむ両親を尻目にふたりで彼の祖国に向けて旅立つ。しかし,彼らの夢と計画は無惨にも頓挫してしまう。悲願成就を目前にして,中継地のヴェネツィアでインサーロフが非業の死をとげるからだ。
 全部で35章からなるこの作品の中で,ヴェネツィアの場面が占めるのは第33章から最終章にかけての3章にすぎないが,読む者にきわめて強烈な印象をもたらし,筋の展開の上でも重要な位置を占める,謂わば急所となっている。「明るい四月の日であった。」(1)という書き出しとは裏腹に,物語はこの水の都で一挙に暗転し,エレーナとインサーロフが過ごす最後の二日間が,ふたりに肉薄したアングルと濃密なまでのタッチで描かれている。 (1) I. S. Turgenev, Polnoe sobranie sochinenii i pisem v 28 tomakh. Sochineniia. T.8. M.-L., AN SSSR, 1964, p.148.
 ここで素朴な疑問が湧き起こる:なぜヴェネツィアなのか,それもかくまでに? ―― 古くから「水の都」と呼び慣わされ,「東方への窓」という顔も持っていた都市国家,<語り手>が「魔法の街」と呼ぶヴェネツィアの特異性は,この小説の中でどのような役割を果たしているのだろうか。また,作品全体に散りばめられた神話,音楽,水,魔法といったモチーフとの関係はどうなっているのだろうか。
 以上の探求が本稿の課題である。独特の緊張感と激しい衝迫によって想像力をかき立ててやまない『その前夜』の作品世界の謎解きの一助とならんことを期しつつ。
1. 東方への窓 
 物語の中で主人公たちがヴェネツィアにやって来た直接の理由は,インサーロフの悲願である祖国解放を実現すべくブルガリアに渡るための唯一の経路だったからということになっている。
彼はそこからザーラを経てセルビアへ,さらにブルガリアへ潜入するつもりだった。そのほかの途は彼には閉ざされていた。戦争はすでにドナウでたけなわだった。イギリスとフランスがロシアに宣戦し,スラヴ全土が波立ち,いまにも蜂起せんとしていた(2)
(2) ibid., p.149.
 ツルゲーネフは長篇小説の作中で起きる出来事の歴史的・社会的背景を明示する独特のこだわりを持つことで知られるが,この作品も例外ではない(3)。上の引用で冒頭に登場するザーラは,ダルマツィアがヴェネツィアの支配下にあった時代に総督府が置かれた港町ザダルのイタリア語での呼称で,この地方の商業中心地であった。また,後半で触れられているのはクリミア戦争のことで,英仏の宣戦布告は1854年のことである。 (3) リド島で主人公たちが騎乗の傲慢なオーストリア将校にどやしつけられる場面は, ナポレオン戦争の結果,ヴェネツィアがオーストリアに割譲されたことを踏まえている。
 東方貿易と十字軍によって繁栄し,「アドリア海の女王」と称されたヴェネツィアはまさに「東方への窓」であった。たとえばヴェネツィアの顔とも言うべきサン・マルコ寺院は,守護聖人聖マルコを祀るため建立(11世紀に再建)されたものだが,そのモスク風のドームと黄金に輝く天井のモザイク画は,この都市国家とビザンチン帝国との浅からぬ因縁を物語っている。
 
 ヴェネツィアには東方から様々な民族が渡って来た。その中にはギリシア人やスラヴ人もおり,とりわけオスマン・トルコの攻撃によるコンスタンチノープルの陥落(1453年)とともに多数の移住者が生まれた。彼らは東方正教の教会やスクオーラ(同胞協会ないし信徒会)を建てることを許された。そうした「東方の影」は今でもヴェネツィアのあちこちに残っており,この街の異国情緒を深めている。
 
 小説中でインサーロフとエレーナが泊まっているホテルは,カナル・グランデ(大運河)が海とまじわる「スキアヴォーニの岸辺」に面していることになっているが,「スキアヴォーニ Schiavoni」とは元来「スラヴォニア人」(4),すなわち「ダルマツィアのスラヴ人」(5)を意味するイタリア語(6)である(この岸辺は観光名所のひとつとしてその名を今に伝えている)。
(4) 『小学館伊和辞典』1983年:の項(1297頁)。また,陣内秀信『ヴェネツィア ―― 水上の迷宮都市』講談社現代新書,1992年,104頁など。
 
(5) ダルマツィアはアドリア海に面したバルカン半島西部の細長い海岸地帯。古代にはローマの属州の一つで7世紀にクロアチア人とセルビア人が移住し,12世紀以降ハンガリー,ヴェネツィア,トルコの間で支配をめぐって争いが続くも,15世紀末から18世紀末までは概ねヴェネツィアの覇権下に。ナポレオン戦争の結果オーストリアに譲渡された後は,19世紀初頭に一時フランス領になったのを除き,オーストリア領。第一次大戦後新興ユーゴスラヴィアに編入されたが,現在そのほとんどは91年に独立したクロアチア領。
 
(6) "schiavoni" は "schiavone" の複数形で,また "schiavoni" とよく似た形の "schiavo" は「奴隷」を意味する。ヨーロッパ諸語の中に schiavone / schiavo(伊),slav (slavonic) / slave(英),esclavon / esclave(仏),Slawe / Sklave(独)という関係が汎く見られるのは,中世ヨーロッパにおいてしばしばスラヴ人が奴隷となっていたという悲しい歴史を踏まえてのことと考えられている。
 また一方,帝政ロシア時代に「ヨーロッパへの窓」と呼ばれたサンクト = ペテルブルグが北欧列強を迎え撃ち,艦隊を出撃させる要塞 = 軍港でもあったように,「東方への窓」ヴェネツィアには異教徒からの聖地奪回を企てた十字軍の出撃基地としての側面もあったことは忘れてはならない。「麗しのヴェネツィア」のかつての富と繁栄の多くは異教の地での戦闘と略奪の上に成り立っていたのである。
 折しも強大だったオスマン・トルコ帝国の衰退とともに,所謂「東方問題」が風雲急を告げようとしていた。イスラム教徒から正教国ブルガリアを解放する闘いに身を捧げようとしていたインサーロフが,寒風の吹くリド島(ヴェネツィア本島の南東にある)の岸辺から東の方を望んで,「この海をながめていると,ここからだとぼくの故郷まで近くなったような気がするんだ」(7)と漏らしているのも無理からぬところがある。 (7) Turgenev, op. cit., p.149.
2. 聖ゲオルギウスの光に射られて
ふたりの部屋は,スキアヴォーニの岸辺からジュデッカ島まで続く広い潟に窓が面していた。彼らのホテルのほとんど真向かいには,聖ゲオルギウスの尖塔がそびえていた。(8)
(8) ibid., p.156. なお,「スキアヴォーニの岸辺」は "Riva degli Schiavoni" だが,ツルゲーネフは誤って"Riva dei Schiavoni" と記している。
 聖ゲオルギウスのイタリア語名が「サン・ジョルジョ San Giorgio」であることから,ここで触れられているのは,スキアヴォーニの対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に建つ,サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会(Chiesa di San Giorgio Maggiore)であると知れる。ティントレットの『最後の晩餐』を蔵するこの教会は,16世紀の建築家パッラーディオの傑作である。竜退治の伝説で知られる聖ゲオルギウスは,ヴェネツィアの守護聖人のひとりになっており(9),辺りを一望できる高い鐘楼によって際だったこの教会は,まさに「この都市の精神的なゲオルギウスの要塞」(10)であった。 (9 )ヴェネツィアは有名なサン・マルコのほかにサン・ジョルジョも守護聖人としていた。また,聖ゲオルギウスを守護聖人としていた国にはグルジア,ギリシア,ハンガリー,ポルトガル,イギリスなどが挙げられるが,コンスタンチノープル陥落後はロシア帝国もそれに加わる。Cf. ウーヴェ・シュテッフェン(村山雅人訳)『ドラゴン』青土社,1996年,282〜283頁。
 
(10) シュテッフェン,前掲書,284頁。
 さて,ヴェネツィアの街並みを注意して見ると,スキアヴォーニの岸辺付近には,「サン・ジョルジョ」の名を冠した建物がさらに二つあることが判る。「サン・ジョルジョ・デイ・グレーチ教会 Chiesa di San Giorgio dei Greci」と「サン・ジョルジョ・デリ・スキアヴォーニ信徒会 Scuola San Giorgio degli Schiavoni」 である。どちらもスキアヴォーニの岸辺を上がって少し奥に入ったところにあり(<スキアヴォーニ周辺図>参照),この小説で言えば,インサーロフたちのホテルの裏手に当たる。
前者はビザンチン帝国から渡って来たギリシア人(グレーチ)のために建てられた,ギリシア正教の教会である(11)。一方,後者は正式には「ダルマタ・デリ・サンティ・ジョルジョ・エ・トリフォン信徒会」と言うことからも窺えるように,ダルマツィア出身者のためのスクオーラで,前者に2年ばかり先立つ1451年に設立が認められたもので(12),16世紀初頭のカルパッチョの手になる「竜を倒すサン・ジョルジョ」の壁画があることで知られている。 (11) なお,現在隣に立つスクオーラは古代ギリシア研究所となっており,その中にはビザンチン宗教絵画美術館(Museo dei dipinti sacri Bisantini)がある。筆者は数年前の夏に立ち寄った際,水都の一角に居並ぶイコンの輝きに奇妙な幻惑感を覚えた。
 
(12) 『ローマ・フィレンツェ・ヴェネツィア・ミラノ』JTB,1999年,244〜245頁, 247頁。
 これらの教会や信徒会が「サン・ジョルジョ」の名を冠しているのは,聖ゲオルギウスが東方正教会でも深く崇敬されてきたからで,むしろ,聖ゲオルギウス崇拝は東方から始まり,十字軍以降西方に入ったと言われる(13)。  シュテッフェンによれば,聖ゲオルギウスの「竜」との戦いはそもそも「信仰の戦い」,すなわち精神的な意味における戦いを意味していたが,十字軍以降それは世俗の意味での戦いへと変質し,この聖人は「キリスト教徒の将軍」として「異教徒に対する戦いの象徴」となり,完全に武装した姿で描かれるようになった(14) (13) 柳宗玄,中森義宗『キリスト教美術図典』吉川弘文館,1990年,238〜239頁。なお,この聖人の祭日は東方でも西方でも4月23日であるが,インサーロフたちがこの街を訪れたのも「明るい四月の日」のことである。
 
(14) シュテッフェン,前掲書,276〜281頁。
 ところで,聖ゲオルギウスと同じく戦士聖人で,時に彼と対にされて描かれる聖デメトリウスという聖人がいる。第1回十字軍の頃には「聖デメトリウスと聖ゲオルギウスの幻視を通し,キリスト教徒によるアンティオキアの占領が告げられたといわれている」(15)が,聖ゲオルギウスと異なり,聖デメトリウスはもっぱら東方正教会で信仰を集め,テッサロニキの守護聖人となっていた(16) (15) ジェニファー・スピーク(中山理訳)『キリスト教美術シンボル事典』大修館書店,1997年,103頁。
 
(16) 同書,69頁。
 ここで,この聖人のロシア語名は,インサーロフの場合と同じく「ドミートリイ(Dmitrii)」になることを指摘しておかなければならない(17)。革命家とキリスト教の聖人という取り合わせには無理があるように思われるかも知れないが,インサーロフの死の床でエレーナが見る夢の中で彼が白海にあるソロヴェツキイ修道院の狭くて苦しい僧坊に閉じこめられている(18)ことは,読者をこうした連想の方向に誘導しているようにさえ見える。 (17) 例えば,ロシアの古都ウラヂーミルには,この聖人に捧げられたドミートリエフスキイ寺院(Dmitrievskii sobor)がある。
 
(18) Turgenev, op. cit., p.162.
 名前や地名をめぐる,これら一連の設定はこの作家特有の「仕掛け」と見ることができるように思われる。すなわち,戦士聖人と同じ名を持つ,病んだブルガリア人革命家は,魔法の街ヴェネツィアでスキアヴォーニはじめ東方に縁のある場所や建物に取り囲まれ,「サン・ジョルジョ」の強烈な光を前からも後ろからも(正面からは西方カトリックの,背後からは東方正教会の)浴びることで,この街に到着早々異教と闘う殉教者の衣を身に纏う運命から逃れられなくなっているのである。
3. 岸辺の挽歌 
 小説『その前夜』の世界では,不思議なことが起こる決定的な場面にいつも「水」が関係している(19)。物語の中の主要な出来事は「水」に因んだ場所で起こる,と言い換えてもよい。 (19) 拙稿「名前のアラベスク,或いはエレーナの時代」−ツルゲ−ネフの『その前夜』における「心理学・神話・音楽」−」,『RUSISTIKA』X,1993年,143頁。
 物語はモスクワ河畔での青年たちの会話で幕を上げ, ドイツ娘のゾーヤが池の上で『湖』というロマンスを魅惑的な歌声で歌う(第15章)。そして,エレーナのもとを去って二度と戻らないと思われたインサーロフに彼女が再会できたのは,乞食老婆の予言めいた言葉を聞いた礼拝堂で雨宿りをした直後のことであった(第18章)。インサーロフはエレーナのパスポートを入手しようとしているうちに土砂降りの雨に打たれて体調を崩し,生死の境をさまよい(第24-26章),健康を回復することなく「水の都」ヴェネツィアで不帰の客となる(第34章)。おまけにインサーロフの死の床でエレーナの見る夢は,彼女が見知らぬ人たちとツァリーツィノの池に小舟を浮かべていると,池が荒れ騒ぐ海に,雪原にと変わっていく,というものであった(第34章)。そしてアドリア海の対岸の浜辺に身元不明の棺が打ち上げられたことを報告して,物語は幕を閉じている(第35章)。
 「水」のモチーフに貫かれたこの作品の最後を飾る舞台がヴェネツィアになるというのは,必然と言えばいかにも必然であった。なにしろヴェネツィアは「水の都」と称されるだけあって,「水」に関係する場所や事物に事欠かない。アドリア海,スキアヴォーニの岸辺,カナル・グランデ,ゴンドラ... と枚挙に暇がないほどである。
 
 その中で最も私たちの想像力をかき立てるものは「波の上の棺」のイメージである。すなわち,インサーロフの死の翌晩エレーナの傍らに「黒ラシャで包まれた細長い箱」を載せた幅の広いボートが波間を進むさま,続いてその箱を積み込んだ2本マストの小船が嵐をついて出帆したまま行方知れずになったこと(20),そして,それから四,五年の後,対岸のザーラで囁かれていたという,次のような噂である。
(20) Turgenev, op. cit., p.164.
数年前,激しい嵐の後で岸辺に棺が打ち上げられ,中から男性の屍体が出てきたとかいう,曖昧な噂が流れた… それとは別の,もっと信用のおける情報によると,この棺はけっして海から打ち上げられたのではなく,ヴェネツィアからやって来た外国婦人が持ってきて,岸辺近くに葬ったものとのことだった。(21)
(21) ibid., p.165.
 水と死の結びつきはいつも妖しい力を持っているが,とりわけ「波の上の死」,「小舟に運ばれる死体」のイメージは強烈だ。かつて『その前夜』とアーサー王伝説の関係を探ったことのある筆者としては(22)「アストラットの美姫」エレインの名に触れないわけには行かないし,バシュラールなら地獄の渡し守「カロンのコンプレックス」や「オフィーリヤのコンプレックス」を云うところだろう。 (22) 拙稿「アラベスク」128〜149頁を参照。
したがって海辺での永別は,最も悲痛であるとともに最も文学的なものなのだ。この詩情ポエジーは,昔ながらの夢とヒロイズムの土地を開発している。この永別はおそらくわれわれの内に,最も苦悩にみちた反響を目覚ませる。われわれの夜の魂の全側面は,水の上の出発として考えられた死の神話によって説明される。(23)
(23) ガストン・バシュラール(小浜俊郎・桜木奉行訳)『水と夢 ―― 物質の想像力についての試論』国文社,1985年,115頁。
 また,ヴェネツィアを舞台にした小説の中でトーマス・マンがいみじくも述べているように,そもそも黒塗りのゴンドラ自体が何より棺に似ている(24)。あるいは押し黙ったインサーロフとエレーナを乗せてカナル・グランデを進むゴンドラこそカロンの渡し舟だったと見るべきか。 (24) 『ヴェニスに死す』第3章。
 「水の都」ヴェネツィアは,そしてとりわけスキアヴォーニの岸辺付近は異国情緒漂う界隈である。水と死にまつわる一連のイメージは,この作品の中に散りばめられたその他の様々なロマン主義的モチーフと相俟って,読者の想像力に強く訴える力を持っている。
4. 声の割れた椿姫と唄を忘れたゴンドラ漕ぎ 
 長篇小説『その前夜』はその全篇にわたって音楽に満ちている。登場人物たちの口から様々な歌が飛び出すほか,オペラなど音楽に関した言葉や人物名等への言及が見られるが(25),わけても物悲しい唄や暗い歌曲が多いことが判る。しかも,異郷で死を迎える馭者を唄ったロシア民謡『モズドクの荒野』(第12章)や,恋人を喪った「私」が「あゝ湖よ,ひと年は まだめぐり終えぬのに...」と時の無常を切々と訴えるラ・マルティーヌ詩のロマンス『湖』(第15章),またプーシキンの詩による葬送歌「恙なく 遠き旅路に...」(第32章),さらに死期の迫った肺病やみの女の鬼気迫る絶唱(ヴェルディのオペラ『椿姫』:第33章)というように,「死」や「別れ」を主題にしたものが目を引く。 (25) このことについては,かつて詳述したことがある。拙稿「アラベスク」,129〜134頁を参照。
 これらの歌・音楽の中にあって,インサーロフとエレーナがヴェネツィアの劇場で『椿姫』を見る場面は,その描写の詳細さと長さによって特筆に値するが,その前にまずこの劇場について補足しておきたい。
 
 主人公たちが短時日にヴェネツィアの観光名所をほとんど漏らさず訪れていることからして,この劇場は有名なフェニーチェ劇場がイメージされていると考えられる。しかもフェニーチェ劇場は1853年にほかならぬ『椿姫』の初演が行われた(大失敗だったが)因縁の場所でもある(26)
(26) なお,同劇場は『その前夜』の時代から今日に至るまで火災による消失と再建を何度も繰り返し,「不死鳥」という名に違わぬところを示して来た(現在また新たな再建計画が進行中なのは周知の通り)。
 さて,ヴィオレッタ役の若い娘はさほど有名でも人気者でもないらしく,初めのうち観客は冷ややかであった。彼女はあまり美しくもなく,「いくらかむらのある,そしてもう割れた声をしていた」が,その演技は次第にふたりの心を動かすようになる。インサーロフは「彼女は真剣だ。死の匂いがする」と云い,エレーナは過去から未来を思い,不吉な予感にとらわれる。折しも舞台の上のヴィオレッタの咳に答えるかのように,インサーロフのうつろな(本当の)咳が桟敷に響いた。
 やがて無名の歌姫は「一切の余計なもの,一切の無用のものを投げ棄てて,自分自身を見いだし」,「その在処を定めることは不可能だが,その向こうに美が住んでいる,その一線を踏み越え」,聴衆を完全に支配してしまう。
 
 ここで「踏み越え」はこの物語にとってのキーワードでもある。このオペラの原題 "La Traviata" とは「道を踏み外した女」というほどの意味であるが,インサーロフの死後ひとりブルガリアに旅立つエレーナがモスクワの両親に送った手紙の中で彼女自身も「わたしは奈落の端まで来てしまったのですから,落ちて当然です」(27)と言っているのだ。なお,運命を受け入れるエレーナの態度にはツルゲーネフ後年の散文詩『敷居』に描かれた,信念に殉ずる覚悟の出来た若い女の姿勢に通じるものがあることを付言しておく。
(27) Turgenev, op. cit., p.165.
 『椿姫』に戻ると,前述の場面の直後ヴィオレッタが不意に迫ってきた死の怖ろしい幻影を前に,熱烈な祈りをこめて「わたしを生きさせてください... こんな若い身空で死ぬなんて!」と絶唱すると,劇場は興奮の坩堝と化すが,エレーナは全身に寒気を覚える。
 
 この『椿姫』を境にして,物語はくっきりと明暗を分ける。幸福な若い恋人よろしく観劇前はすべてのことに笑い転げていたふたりは,観劇後は急に現実に引き戻されたかのように,暗く押し黙ってしまう。インサーロフの容態が急変し,ついに亡くなるのはその夜のことである。
 ヴェネツィアにおける音楽に関してもうひとつ触れておかねばならないのは,唄を忘れたゴンドリエーレ(船頭)たちのことである。
 
 劇場からの帰り路,エレーナとインサーロフはゴンドラに乗ってカナル・グランデを通ってホテルに向かう。小さな赤い灯をつけてゴンドラが群れをなして行き交っているが,あちらこちらで船頭たちの短く低い叫び声が聞こえるばかりで「彼らは今ではけっして唄わない(28)」ことがわざわざ括弧書きされている。作者はここでヴェネツィアと言えばゴンドラ,ゴンドラと言えばゴンドリエーレのカンツォーネと決まっているものという一般的な見方に冷や水を浴びせているように見える。
(28) ibid., p.155.
 ただし,おそらくこれは作家の独創というよりも,かつて若きツルゲーネフが傾倒したこともあるバイロンからの影響ないし彼への参照と見るべきであろう。自由を求めてやまなかった英詩人はその『チャイルド・ハロルドの巡礼』第四歌(1818)のなかでこう詠んでいた。
ヴェネツィアでは
もうタッソの詩句を歌い交わすこともなく
歌をなくしたゴンドラ漕ぎがただ黙々と船をこぎ
町の館が水辺にくずれおちてゆき
音楽が奏でられないこともある。
そういう日々は過ぎ去ったのだ。それでもまだ
美しさはここにある(29)
(29) 翻訳は鳥越輝昭『ヴェネツィアの光と影』大修館書店,1994年,3頁からの引用。同書で著者はヴェネツィアの「滅びの美」を発見し,ヨーロッパ中に知らしめたのがバイロンであることを論証している。
 「凋落の美」の街ヴェネツィアで,ひとは瞼の裏に壮麗な館が並び立つ幻影を見,耳の奥にゴンドリエーレたちの明るい唄声がうつろに谺するのを聞くのである。この街を「凋落」が支配しているように,唄のないゴンドラに押し黙ったまま揺られ行くインサーロフとエレーナのそばには音もなく「死」が忍び寄って来ており,もはやふたりの時間があまり残っていないことが暗示されている。
 
 いずれにせよ,小説『その前夜』の中で,「唄を忘れたゴンドラ漕ぎ」は『椿姫』を演じた「声の割れた歌姫」とともにネガティヴな世界を暗示する記号,ないしはそうした世界へ導くある種の符帳として働いている,と見ることができるだろう。
5. 失われた未来,あるいは,「今此処」の逆襲 
 小説『その前夜』を読んだことのある人の多くは,緊張感に満ち波乱含みの展開を期待させていた物語が,ヴェネツィアに来て急に打ち切られたような感じを味わったに違いない。ふつう放物線を描いて進むはずの物語の筋が突然寸断されるのである。大いなる出来事が起ころうとしている/していたのかも知れないが,しかし,描かれたのはどこまでもタイトル通りその「前夜」の光景で,小説は「その日」を見ずに終わってしまい,未来は失われたままである。当時の急進派の批評家ドブロリューボフは,この作品を論じた『その日はいつ来るか』(1860)という評論の中で苛立ちを隠さなかった。
 かつて筆者は,『その前夜』の主要登場人物が「一人として hic et nunc を見ていない」(30)ことを指摘し,この作品の世界では「主人公たちの作る意識の「磁場」の中で,時間のベクトルが捩じ曲げられて「現在」が空洞化され,時間意識の重心が専ら「未来」に,まだ来ぬ,実体のない「未来」に偏っている。かくして「今」が「今」として生きられぬまま,「今ここ」の現実感覚がかぎりなく稀薄になっているのである」(31)と述べた。 (30) 拙稿「アラベスク」139頁。
 
(31) 同上,140頁。
 実際,初めて読者の前に現れた不撓不屈のブルガリア人の闘士は,祖国の解放を人生の唯一の目的とし,極言すれば,すべての事柄をその一事の成就に資するか否かによって判断していた。この鉄のような男が一度はエレーナの許を立ち去ろうとしたのも,彼女に対する自分の思いに気づき,それが大願成就の妨げになると考えたからにほかならない。そんなインサーロフは「現在」を「現在」として生きておらず,「未来」のために「現在」を犠牲にする生活を送っていたと言える。同胞のために奔走しながら,「僕たちの時間は僕たちのものではないんだ」(32)と彼が口にしたのは象徴的であった。両親や友人たちのもとを離れ,事実上祖国を棄ててインサーロフとともにブルガリアに旅立つ道をあえて選んだエレーナも,こうした彼の態度や考え方を受け容れ,共有していたはずである。 (32) Turgenev, op. cit., p.66. この作品のタイトル自体が,未来のある点から現在を位置づけようという見方,現在よりも未来に重きがおかれた歪んだ時空間を暗示している。
 しかし,「魔法の街」ヴェネツィアでふたりはまるでそれまでの時間に対する態度を放棄し,生き方を改めようとさえしているかのように見える。
「ねえ,」とエレーナは続けた。「カナル・グランデを舟で行ってみない?わたしたちはここに来てからろくにヴェネツィア見物をしていないのよ。そして晩には劇場に行きましょう。桟敷の切符が二枚あるの。新しいオペラをやってるそうよ。ねえ,今日という日をおたがいに捧げ合うことにして,政治だの戦争だのはみんな忘れて,たったひとつのことだけ知っていることにしましょう。わたしたちが生きて,呼吸していて,そしてふたりとも永久に結ばれていると考えているということだけ… ねえ,よくって?」(33)
(33) ibid., p.150.
 彼らはここで初めて自分たちの "hic et nunc" を見つめ,それをいつくしみ,(他の人々のではない)自分たちの「今日という日」を精一杯味わい尽くそうとした。そしてその味は初めは甘美で,やがて苦いものになる。この急展開を象徴しているのが『椿姫』をめぐる一連の場面であった。このオペラの観劇後,ふたりは急に現実に引き戻され,あっという間にインサーロフの死を迎える。しかし,この現実 = 現在は彼ら自身の気持ちとまったく無関係に襲いかかってきたのではない。それどころか,むしろ,ふたりはそれまで軽んじてきた自分たちの「今此処」に気づき,それを大切に思い,それに執着しはじめたことに高い代償を払わされた,と見ることもできるのではなかろうか。厳格な人々の目からすれば変節とさえ呼べそうな彼ら自身の態度の変化が,悲願の成就を遠ざけてしまったのである。そのことにエレーナもうすうす気づいているのか,重態になったインサーロフの傍らで不安に駆られた彼女は,自分たちが愛し合ったことがそんなに罪深いのか,迫り来る死と別れはそれに対する罰なのか,と神に問いかけている(34) (34) ibid., p.157.
 主要登場人物が「一人として hic et nunc を見ていない」という先の指摘には重要な例外があった。そして,この例外,「今此処」への執着という形で現れた,時間とのもうひとつのそれもきわめて人間的な関わり方を示すことができた点に,ヴェネツィアの場面のもうひとつの重要な意義がある。
6. 魔法の街 
 ヴェネツィアの場面にはしばしば<語り手>による介入が目立つ。たとえばインサーロフの死の前後にエレーナが神に問いかける場面の後で,<語り手>はそれぞれ次のような箴言めいた言葉を残している。
エレーナは,各人の幸福は他人の不幸の上に成り立つものであり,彫像が台座を必要とするように,各人の利益や便宜でさえ他人の不利益や不便を必要とするものであることを知らなかったのだ。(35)
われわれは誰しも生きているというだけですでに罪を犯しており,どれほど偉大な思想家であれ,どれほど人類の恩人になっていようと,己のもたらした利益によって生きる権利を有しているなどと期待できるような者はないのである。(36)
(35) ibid.
 
(36) ibid., p.164.
 これらの箇所で<語り手>はほとんど全知全能の神の高みにおり,意味深長で暗示的な彼の言葉は物語に運命論的な色彩を帯びさせている。ヴェネツィアの場面でこうした容喙の頻度が上がっていることは,物語の収束に向けて<語り手>の支配力が増していることを表している。
 
 こうした介入の中でも最も長く,また美しく見事でもあるのは,<語り手>自身の口からのヴェネツィアについての長広舌である。舞台が水の都に移って間もなく,<語り手>は物語を止めて(インサーロフとエレーナをゴンドラに残したまま),厳かな口調でこの街について蘊蓄を傾けるように見解を披瀝している。
四月のヴェネツィアを見たことのない者は,この魔法の街のえも言われぬ美しさのすべてを知っているとは言えまい。夏の明るい太陽が壮麗なジェノヴァにふさわしく,秋の黄金と紫が偉大なる老翁 ―― ローマにふさわしいように,春のやさしさとやわらかさはヴェネツィアにこそふさわしい。ちょうど春がそうであるように,ヴェネツィアの美しさは心の琴線に触れ,欲望を呼び覚ます。それは間近な,謎めいているという訳ではないが神秘的な幸福の約束のように,世慣れない心を悩ませ,焦らすのだ。そこではすべてが明るく,わかりやすいが,すべてがどこか魂を奪われた静けさの,夢見心地の靄に包まれている。そこではすべてが黙し,すべてが愛想よい。そこではすべてが名前からして女性的だ。この街だけが「麗しの・・・」と称されているのも故なきことではない。宮殿や教会の巨大な建物の佇まいは,若い神の端正な夢さながら,軽やかで奇蹟のようだ。運河の物静かな波の灰緑色の輝きや絹のような色の移ろいにも,音もなく行き交うゴンドラの舟脚にも,何かがぶつかったり割れたりする音や騒ぎ声といった耳障りな都会の喧噪とは無縁なことにも,どこかお伽話めいた,魅惑的で不思議なところがある。「ヴェネツィアは死にかけています。ヴェネツィアはさびれました」と土地のひとは言う。けれども,もしかしたら,このお終いの魅力,美が開花し,勝ち誇る最中の凋落の魅力は,以前は欠けていたかもしれない。それを見ていない者には,それは分からない。<中略>その生涯を終え,人生に破れたひとには,ヴェネツィアを訪れる意味はない。それは駆け出しの頃の実現しなかった夢の思い出のように,苦い味がすることだろう。けれども,まだ力のたぎっているひと,順風満帆の日々を送っているひとには,甘美な街だろう。そういうひとは自分の幸福をこの街の魔法にかけられた空の下に持って来るがよい。その幸福がどれほどまばゆく輝いていようとも,ヴェネツィアはけっして失せることのない輝きで,それを明るく照らしてくれることだろう(37)
(37) ibid., p.151.
 これはたいへんすぐれたヴェネツィア紹介文であるともに,きわめて暗示的な文章だ。この美しい一節はけっして明るいだけではなく,幾筋もの陰影を刻まれている。そこにはどこか突き放したところがあり, 諦念のようなものすら感じられる。まるで酸いも甘いも噛み分け,人生を達観したひとの言葉のように(38) (38) ツルゲーネフはこの作品の執筆時には40代に入ったばかり。なお,作家自身がイタリアを旅したのは,青春時代の1840年1月から5月にかけてと,1857年10月から1858年の春中頃までの二度である。
 この一節はまた,物語の中でこの後起こる出来事について予示的なものになっている。どうやら<語り手>はインサーロフとエレーナの態度の変化と運命の暗転をヴェネツィアという街の魔力に帰そうとしているかのように見える。彼らはヴェネツィアの「魔法にかけられた空」の下で過ごすうち,「どこかお伽話めいた,魅惑的で不思議なところ」のある 「魔法の街」の魔力に取り憑かれたのだ,とでも言いたげだ。
 
 すなわち,<語り手>によればこの街の最良の季節である「四月のヴェネツィア」を訪れたインサーロフとエレーナは ,「この魔法の街のえも言われぬ美しさ」によって,それまでのあまりにも禁欲的なあり方を放棄する。なぜなら「ヴェネツィアの美しさは心の琴線に触れ,欲望を呼び覚ます」からだ。大きな夢を抱き,若く,力に満ちていたふたりにとって,はじめヴェネツィアは「甘美な街」だが,やがて運命は暗転し,彼らはその地に居続けられなくなる。
 もともと『その前夜』という作品には様々な神話・伝説に因んだ,不思議な力を持った物や人物等の名が多数現れる。たとえば, 登場人物たちが会話の中で「妖精の王」オベロン(オペラもある)の名やオペラ『魔弾の射手』の主人公たちに触れたり,スラヴ神話に伝わる水の精ルサールカに譬えられたドイツ娘が魅惑的な歌声を披露したり,女占い師まがいの乞食の老婆(魔女かも知れない!)がエレーナの前に現れたりするのだ。
 不思議・魔法に関するこれらの語彙やモチーフは,ヴェネツィア=「魔法の街」説があまりにも不自然・唐突に見えないようにして,その受け容れを容易にしていると言えよう。
 ところで,バイロンが19世紀にこの街に「凋落の美」を見出し,それを広めたことはすでに見たが,これに先立ち1786年9月に訪れたヴェネツィアをゲーテは「この不思議な島の町,この海狸共和国」(39)と呼んで,ヴェネツィア人の先祖たちが潟という本来きわめて不都合で恵まれない場所に,まるでビーバーが水の中に巣を作るようにこの街を人工的に作り上げたことに感嘆している。
(39) ゲーテ(相良守峯訳)『イタリア紀行(上)』岩波文庫,2001年,89頁。
 一方,ロシアからの亡命者としてヨーロッパ各地を転々とした文学者 = 思想家のゲルツェンは,『その前夜』の発表から7年ほど後に当たる1867年2月にヴェネツィアを訪れ,回想録の中に次のように記している。
ヴェネツィアほど,華麗な常識外れの町はない。町など作れるはずもないところに町を建てるということそれ自体が狂気の沙汰だが,もっとも優美で壮麗な町の一つをこのように建ててしまうなど,まさに天才的な狂気だ。水路,海,その輝きと揺らめきは,一種独特の豪華さを感じさせずにはおかない。軟体動物たちが螺鈿らでんや真珠で区分けして,自分たちの居室を作っているかのようだ。(40)
(40) A. I. Gertsen, Sochineniia v 9 tomakh. T. 6. M., GIKhL, 1957, p.463-464.  邦訳には以下を用いた。アレクサンドル・ゲルツェン(金子幸彦,長縄光男訳)『過去と思索 3』筑摩書房,1999年,523頁。なお,鋭い政治的感覚を備えたゲルツェンは,ヴェネツィアがすぐれた民主制を誇る一方で密室政治も有名であったことなど,社会構造・政治システムの矛盾 = 二重性を指摘し,この街のある種のいかがわしさを示唆している。
 ゲーテとゲルツェンの見方には,海上に浮かぶ街,ラグーナ(潟)の上に営々と築かれた都市国家という,ヴェネツィアの立地の人工性に着目している点で通底するものがある。
 
 それに対し,ツルゲーネフのヴェネツィア=「魔法の街」という措定は,バイロンの「凋落の美」説を受け継ぎながら新機軸を打ち出したもので,この街のイメージ史の中でもユニークである。そしてこの見方は,ドイツの作家に後継者を見出したように見える。
 『その前夜』の発表から半世紀余り後,ヴェネツィアは,功なり名を遂げた謹厳な芸術家がこの街の魔力に取り憑かれ,「美」のために破滅するという法外な着想をトーマス・マンに抱かせることになる。興味深いことに,アッシェンバッハを虜にする美少年タッジオはポーランド人(つまりスラヴ系)という設定になっている(41) (41) ちなみに,アッシェンバッハが宿泊しているホテルも彼が死を迎える浜辺もヴェネツィア本島ではなく,リド島にある。なお,ロシア文学に親しんでいたトーマス・マンはツルゲーネフ贔屓でもあった。
結びにかえて
― 越境の詩学のためのエチュード ―
 
 『その前夜』におけるヴェネツィアの場面はまた逆説に満ちている。それは「 各人の幸福は他人の不幸の上に成り立つ」という類の<語り手>の箴言めいた言葉のみならず,作中の出来事の展開自体にも看て取れる。例えばインサーロフが悲願の達成を目前にして頓死してしまうし(一番近づいたときが一番遠ざかるとき),主人公たちの愛が成就し,ふたりが結ばれたかに見えた途端引き裂かれる( 会うは別れの始まり )。またソプラノの絶唱よりもゴンドラ漕ぎの唄よりも雄弁に響くのは,音もなく忍び寄る死の音楽である。
 
 このような逆説は,一見相反し遠く隔たっているように見えるふたつの世界や価値が実は踵を接している( 皮膜のような薄い境界によってか,重なり合うところが大きいかはともかく )ことに基づいていると考えられる。
 ツルゲーネフとイタリアの関係を追った論考の中でグレフスは,インサーロフがバルカン半島に渡る目的で訪れたヴェネツィアを「西洋と東洋の仲介者」(42)と位置づけている。たしかにこの街は,ふたつの世界の接点という性格を帯びていると言えるが,それは単に「西洋と東洋」についての話だけに止まらない。 (42) I. M. Grevs, Turgenev i Italiia (kul'turno-istoricheskii etiud) . L., Izd. Brokgauz-Efron, 1925, p.58.
 ヴェネツィア,とりわけスキアヴォーニ界隈は両義性に満ちた領域だ。
 
 たとえばスキアヴォーニの岸辺は日本語でしばしば「スキアヴォーニ河岸」などと訳されているが,対岸がそのまま海に面したこの岸辺はむしろ「海岸」という方が似つかわしい。おそらくカナル・グランデ(大運河)をその形状から川と見て「河岸」と呼んでいるのであろうが,この運河は内陸に発する川の河口でもなければ,そうした川と繋がっている類のものでもなく,ヴェネツィア本島をふたつの部分に分かつようにS字形に貫いている,淡水というより海水の流れである。
 そもそもこの街には,サン・マルコに守られたヴェネツィアという表の顔のほかに,サン・ジョルジョに守られたヴェネツィアというもうひとつ別の顔があったのではなかったか(43)。そして,そのサン・ジョルジョ(聖ゲオルギウス)は東方キリスト教の聖人であるのみならず,西方キリスト教の聖人でもあり,すでに指摘したように,スキアヴォーニ周辺には彼を祀った正教系とカトリックの教会が全部で三つもある(本稿第2節参照)。
 
 このようにふたつの世界に跨るヴェネツィアの両義的性格は,この街を目の前の現実世界とは別のもうひとつの世界との接点ないし異界への通過点・領域となしえ, この街を時空間の歪んだ,謂わば特異点としている。
(43) 9世紀にアレキサンドリアから聖マルコの遺骸を持ち帰って以来,ヴェネツィアはそれまでの守護聖人であったギリシア系の聖テオドーロ(テオドルス)と訣別したことになっている。しかし,この聖人が竜退治で知られたことを考えると,たとえ聖テオドーロがヴェネツィアの守護聖人から引きずり下ろされたのが事実としても,彼に対する信仰は同様の伝説を持ち,より高名な聖ゲオルギウスへの信仰の中に隠れて残ったように見えなくもない。なお,サン・マルコ広場の小広場には海のそばに今も2本の柱があり,一方は聖マルコの象徴である有翼の獅子の像を,もう一方はワニの上に乗った聖テオドルス(聖ゲオルギウスと区別するためか,このようにワニ退治の図も見られる)の像を戴いている。
 さて,隣り合うもうひとつ別の世界に行くためには,ひとはふたつの世界の境界を踏み越えて行かなければならない。ヴェネツィアの劇場で主人公たちが見たオペラを思い出したい。はじめ冷ややかに迎えられていたヴィオレッタ役の無名の歌姫は,終幕では「一切の余計なもの,一切の無用のものを投げ棄てて,自分自身を見いだし」,「その在処を定めることは不可能だが,その向こうに美が住んでいる,その一線を踏み越え」ることで,劇場を興奮の坩堝と化してしまった(本稿第4節参照)。
 
 この場面が象徴的に表している「踏み越え」や「越境」に,私たちはこの作品の中で繰り返し遭遇する。エレーナはインサーロフを愛することを選択した時点ですでに,それが祖国を棄て家族・友人らとの断絶に通ずる途である以上,ごく普通の人々たちが共有している価値や道徳上の一線を踏み越えた訳であるし,インサーロフはアドリア海を越えてバルカン半島に渡ろうとしたものの果たせず,そのかわりに生と死を分かつ境界を跨ぎ越えることになったのだ。
 翻ってここで『その前夜』の執筆の背景を考えてみよう。
 
 新しい長篇小説でツルゲーネフは,それまでの知識はあるが意志と行動力のない所謂「余計者」タイプではなく,行動力のある肯定的主人公をロシア社会に提示することを求められていた(44)。しかし。それは作家自身にとっても未知の海に漕ぎ出すに等しい仕事で困難をきわめた。ロシアを舞台にしては,ロシア人を主人公にしては描けない世界だった。そこで難儀した作家が非日常的ないし非現実的な世界を導入すべく,主人公を内面がほとんど明らかにされない外国人に,そして大団円の舞台をロシアの外に求めざるを得なかったとしても不思議ではない。
(44) この問題について作家が真剣に考えていたことは,その性格分類で有名な『ハムレットとドン・キホーテ』(1860)と題する講演からも分かる。
 そうした中で余所ならぬヴェネツィアが選ばれたのは,おそらく,この作品に現れる主要なテーマやモチーフの謂わば結節点ともなる可能性を持っていたからであろう。すなわち,「東方」に関するもの(45),水,歌(音楽),魔法と神話をめぐるもの,これらのいずれともヴェネツィアが深い関わりを持っていることは,すでに見てきたとおりである。そしてこれは推測にすぎないが,主人公が死を迎える舞台に美しい場所が望まれたということも手伝ったのではなかろうか。「愛と死」のドラマのみならず「美的なものと倫理的なもの」のせめぎ合いもこの作品の隠れた主題のひとつとなっているからだ。 (45) 小説全体の中でギリシアに関するモチーフが果たしている役割については,拙稿「『その前夜』におけるギリシャ・モチーフ」,『Rusistika』V,1988年,1〜15頁を参照。
 どうやら,ヴェネツィアは作家や芸術家の想像力をよほど刺激する場所と見える。ヴェネツィアの特異な歴史や地理,文化から生まれた,この街にまつわるイメージをツルゲーネフは大筋で継承し,自作の中での雰囲気作りに巧みに利用している。
 
 ヴェネツィアの場面に現れた「異国趣味」,「東方趣味」,「神秘的世界」のモチーフ等は,ロマン主義のモチーフ,と言って言い過ぎならば,ロマン主義の愛好するモチーフである。ツルゲーネフはロシア・リアリズムを代表する作家と位置づけられてきたが,『その前夜』という長篇小説はどこかロマン主義の匂いがする,あるいはもう少し控えめに言って,ロマン主義好みの要素に満ちていることを筆者はこれまでも繰り返し指摘してきた(46)。それでも,これがリアリズムの枠内でロマン主義のモチーフないしロマン主義的なものを持ち込み,利用しただけなのか,それとも元々リアリズムの筆致で書かれた(と考えられている)テクストそのものがロマン主義に浸食されていると見るべきなのか,それは今のところ不分明である。
(46) 拙稿「ギリシャ・モチーフ」及び「アラベスク」を参照。
 以上,われわれはヴェネツィアの場面の解読を手掛かりに,『その前夜』という作品の中に「踏み越え」や「越境」の主題を探ってきたが,そこにはもしかしたら,若い頃のロマン主義に対する熱狂を克服し,リアリズムの道に目覚めたとされるこの作家自身の中に燻っていたリアリズムとロマン主義の間での跨りと越境が,幾分か反映していたかも知れない。

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