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「軍人勅諭/教育勅語」

文責:松本邦彦
(2009年08月02日に増築/最終更新時:2023年09月21日(木)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。

聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

筆名の五十音順さくいん(敬称略)

2023年度前期
からあげ
2020年度前期
KJ」「KT」「OT」「SM」「SS」「YS」(名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が違うかも…)
2017年度前期
エクスペリアームス」「おっぱっぴー」「きりたんぽ」「思想
※実習プリントに年齢や続柄を書く欄を設けていなかったので、せっかく聞き取ってもらっていても載せられない方多数。すみません。
2016年度前期
はえぬき」「プレデター」「辺境人(祖父の兄弟祖母)」「麦芽」「ホルマリン
2014年度前期
ふじっぴー」
2013年度前期
チロル
2012年度前期
エトピリカ」「萩の月」「抹茶」「りんご
2011年度前期
アノニマス」「いきものがかり」「いちごケーキ」「上杉謙信」「ooisidamaitake」「おせんちゃん」「くま」「junkfood」「タマ」「TTB」「テマンマン」「ひこにゃん」「広島東洋カープを応援する会」「ヘッケル」「ポンず」「マキシマム」「マリー」「みーこ」「三谷幸喜」「ミッフィー」「ミラニスタ」「ラビ
2009年度前期
シャーしん」「日本一の蹴られ役」「march

<年齢順です>

・当時……歳 ……/……年度…「……」さん

 ……。
 →「……」さんの感想:
 
・(当時?歳)/実家の隣の家の人/2018年度前期・日本外交史「おっぱっぴー」さん
・軍人勅諭:能く覚えていない。覚えさせられなかったと思う。〔※松本注:ここは祖母上かも?〕
・教育勅語:当時は暗記していたが、今ではほとんど覚えていない。皆が覚えるものであったので、当時は特に疑問も感じずに覚えていた。今となっては意義が分からない。
 →「おっぱっぴー」さんの感想:教育勅語を覚えさせ、そこから国全体の思想を形成するというのが洗脳のようで怖く感じた。祖母も当たり前のことだと思って暗記していたので、周りの人もそのように疑問など抱かずただ覚えていたのだなとわかった。
・(当時?歳/未記入)/2016年度前期・日本外交史「麦芽」さん
・軍人勅諭について。「死ね」とか「天皇陛下のためになんとかせい」とか「お国のために死ね」ではなく、「人間として立派な生き方をしなさい」と言われた。非常に立派な文章だと思う。武士道を大切にしていて嬉しい。とても立派な教育で、充実したものである。

・教育勅語について。学校評価は暗唱がすべてで、覚えの悪い生徒には先生が怒声を浴びせていた。作業のような感じで、あまり良い印象がない。なんでこんなことをしているのか分からなかった。法律による規定で無理矢理やらされていた。

・当時?歳(未記入)祖父/2017年度前期・日本外交史「きりたんぽ」さん
・軍人勅諭:習っていないそうです。
・教育勅語:あまり覚えていなかったが、習ったらしい。当時は大切に扱い、日本の勝利を願った。
→「きりたんぽ」さんの感想:「国のために」という考えが暴走しているような印象を受けた。
・当時?歳(未記入) 曾祖母/2017年度前期・日本外交史「エクスペリアームス」さん
 ・教育勅語について:死んだひいおばあちゃんは「朕惟フ)ニ…」と、教育勅語をすべて暗唱してました。毎日唱えて覚えていたそうです。
・当時?歳(未記入) 曾祖母/2016年度前期・日本外交史「はえぬき」さん
 ・教育勅語について。今はもう忘れてしまった。今の現代に必要ないかもしれない。当時は、大事なものとして暗唱させられていた気がする。当時は正しいと思い、従っていた。
・(当時?歳 未記入) 祖父/2016年度前期・日本外交論「プレデター」さん
・軍人勅諭について。学ばなかった。

・教育勅語について。今はよく覚えていないが、家のどこかにある。今は、軍国主義、全体主義体制はよくないが、家族を大切にする教えは日本人として大事にしていくべき。戦前では、とても大切なものだと思っていた。生徒も覚えていた。

・当時?歳(松本のメモ忘れ。すまん) 祖母/2013年度前期・日本外交論「チロル」さん
・教育勅語について聞きました。軍人勅諭については分からないそうです。

・今の記憶:もう忘れてしまった。(内容は少し覚えているようだった。)

・当時は:時代が時代だから、あまりいいものではないと思うが、仕方なかったと思う。戦前はまだ幼かったため、すなおに覚えなければならないものだと思っていた。また、勅語にあるように、勉強して国(天皇陛下)のために役立ち、親に孝行をすることが基本だと思っていた。

・当時の扱い:毎週月曜日の朝の集会で必ず暗唱をさせられた。また、教育勅語と天皇陛下の写真が入った忠魂碑〔※松本注:「奉安殿」のことかも〕に毎日の登下校時に礼をしなければならず、礼をしているか監視されていた。当時は勅語は一番大事なものという認識があった。

 →「チロル」さんの感想:勅語には関係がないが、他にもいろいろ聞いたところ、戦争に負けるということは、天皇がポツダム宣言を受諾したという旨をラジオで聞くまではまったく思っていなかったそうでした。
 これを聞いて、本当にメディアによる世論操作がおこなわれ、みんなが戦争に勝っている、勝つと信じ切っていたのだと実感した。
・2016年に90歳前後?歳 祖父の兄弟/2016年度前期・日本外交論「辺境人」さん
・祖父の兄弟(敗戦直前に陸軍士官学校入学)に話を聞いたところ、当時は軍人勅諭に対しては、あたり前のことで内容を疑うことはなかったそうです。現在では、勅諭も含めた敗戦直前の日本は「ばかばかしいことをしていた」と感じているそうです。
・2016年に80代後半か90代 祖母/2016年度前期・日本外交論「ホルマリン」さん
 ・教育勅語について。おばあちゃんは少しボケが入っているので、あまり覚えていないようでしたが、当時は皆覚えていたようです。今は、特にどうとも思っていないようです。当時については、戦前がどうとかはあまり覚えていないようでしたが、周りに流されて大事なものだという認識はあったようです。

・軍人勅諭については、教育勅語よりも記憶が薄いようでしたが、大事なものという認識はあったようです。今となってはあまり印象もないようでした。

敗戦時には十代だった祖父母(2020年度前期・日本外交史「KJ」さん)
 祖父母(ともに80代後半)に電話で聞いてみたところ、軍人勅諭はあまり覚えてなくて、教育勅語は多少覚えているという感じでした。当時は覚えるのが普通だったので、当たり前のようにやっていたけど、今となっては意味のわからない事だったとのことです。
 僕も二つを覚えるという事が本当に必要だったのかと聞いてみた事で、より思うようになりました。規定でやらせて、思想を統一するのはあまり良くない事だと思った。
・敗戦時には15歳だった方(2020年度前期・日本外交史「SM」さん)
A)聞き取り相手:90歳/仙台市(空襲で家は焼けたらしい)

B)いま思い出すと: 最近物忘れがひどいらしくおぼろげであったが、教育勅語は一部暗唱できていた。軍人勅諭はよく覚えていない。今では、周りに流されてわけのわからないことをしていたなと言っていた。でも教育勅語の内容は、今でも通じるところはある気がするとも言っていた。

C)当時の扱いについて:当時は暗記、暗唱が当たり前で自分の周りも覚えていたため、何の疑問も持っていなかった。お国にとって大事なものだと思っていたらしい。

D)「SM」さんの感想:教育勅語は日本という国をまとめるための道具みたいだと思った。小学生のころから暗記させられ、儀式のように暗唱していたところはかなりおかしいと感じた。また聞き取りした人は、私が教育勅語について聞いたとき急に暗唱しだして少し怖く感じた。当時はこれが当たり前なのだと実感させられた。

・敗戦時は13歳だった祖父(2020年度前期・日本外交史「KT」さん)
 私は現在88歳の祖父に教育勅語について感想を聞いた。
 まず、私の祖父は戦前は北海道に住んでいた。今は教育勅語について「天皇に対して国民全体で忠誠心みたいなものを強くするようなもので、国民を洗脳するようなものだった」と祖父は言っている。しかし、戦前は祖父は子供であり、教育勅語について「学校で覚えさせられていたものだったから何も考えずに覚えていた」と言っている。
 私の祖父が話していたことを踏まえると、教育勅語とは天皇に対する国民全体の忠誠心を強め、敵に捕虜となった時には自決することも厭わないような国民を生成するためのものでもあったと感じる。また、当時の祖父のような子供にとっては何も考えずに天皇に忠誠を誓わないといけないように感じるため、影響力が特に大きいとも感じた。
・敗戦時は小学生 祖母/2016年度前期・日本外交論「辺境人」さん
 ・祖母(敗戦時は小学生)に聞いたところ、当時はそれが当たり前のことで、特段疑問を持っていなかったとのことでした。ただ今になって考えると、当時は疑問を感じたとしても、それを口に出すことは絶対にできなかっただろうと言っていました。
敗戦時には9歳だった祖父(2020年度前期・日本外交史「OT」さん)
A)聞き取り相手:祖父84歳・宮城県の気仙沼

B)いま思い出すと:今になるとよくわからない。

C)当時の扱いかた:天皇は自分の言葉を思ってばかり。学校では校長が必ず言う。行事等で。

D)「OT」さんの感想:祖父によると昔のことだから今になるとあまり考えることもなく、わからないということでした。しかし、昔は校長が入学式などで絶対口にするものだったらしいです。
 私的には、宗教の規制なども関連してきますが、天皇の命令によって強く神聖化され、自分たちの考え・思想の自由が奪われていたのではないかと考えました。また仏教の教えなどと異なるももので、人間としての倫理観というものの記載はなく、かなり堅苦しいものだと感じました。祖父の話からすると、教育を受けるうえで、教育勅語というのを毎回聞かされ、押し付けられる感覚があったのではないかと思います。現代の学校でお押し付けられるという感覚はありますが、天皇の考えをとにかく植え付けられるのは当時の子供としては純粋に疑問を持ち、意味が分からなかったことだと思いました。

・敗戦時には9歳だった祖母(2020年度前期・日本外交論1「SS」さん)
A)今年で84才になる祖母。当時は気仙沼市で暮らしていた(沿岸部ではなく、山の方)。小学3年の時に終戦を迎えた。

B)今どのように覚えていて、どう思っているか

・軍人勅諭についてはあまり覚えていないが、教育勅語は学校に行くと毎朝読まされていた。
・教育勅語が書かれた紙を見ながら読んだ。
・今思い返しても、悲しいような寂しいような気持ちがする。
・儀式と礼拝に関して特に意味は理解していなかったが、必ず毎朝やらされていた。(祖母は最敬礼と語っている。)
・全ての教室に天皇の写真が飾られていた。(恐らく御真影のこと)
・ちゃんとやらないと教師から怒られた。
・祖母の小学校にも奉安殿があった。毎日「奉安殿に注目」と言われ、合掌しながら黙祷をしたらしい。
・祖母曰く、当時は勉強よりも儀式と礼拝の方が重要だったらしい。
C)戦前はどう扱って、どう思っていたか
・学校での勉強は二の次で、教育勅語の方がより重要視されていた。
・当時は学校でもそのことばかりだったので、かなり嫌だったという。
D)「SS」さんの感想
・当時の様子を想像してみると、今と比べても大分異様な光景だったのだろうと思える。さらに聞いてみたところ、終戦を迎える頃は一日の大半を防空壕の中で過ごしていたと語っており、一日が戦争のことで始まり戦争のことで終わるという生活は、当時の祖母の年頃を考えると相当苦しかったのだろうと感じた。こうして自由に勉強が出来ている環境に改めて感謝しなければいけないと感じた。
・敗戦時には9歳だった祖母(2020年度前期・日本外交論1「YS」さん
インタビュー相手:84歳 祖母 (教育勅語について。軍人勅諭についてはわからないとのことでした。)

今:内容もうろ覚えで、何とも思わない。

戦前:覚えるのが当然だという認識で、特に違和感はなかった。みんな熱心に暗記していた。

「YS」さんの感想:現在の祖母の記憶は曖昧だったが、何となく当時の雰囲気を聞き出せた。私にとって当時の出来事は歴史上の出来事という認識だが、実際に話しを聞くことで現実味が増した。自分もその場にいたら何も疑問を持たなかっただろうし、ルールに対して批判的な姿勢など生まれなかったと思う。

・1945年当時8歳前後 祖母/2023年度前期・市民社会論「からあげ」さん
A)今の年齢/戦前の住まい
現在86歳(祖母 )で、戦前は宮城県の西側(とても田舎)に住んでいました。


B)「軍人勅諭」について今どのように覚えていて、どう思っているか

 軍人勅諭については、内容は何も覚えていないものの、小学校の頃に朝礼で読み上げていたことは覚えていると言っていました 。高学年の生徒が、校長先生が立つ台に立って先に読み上げ、その後を続いて他の生徒が繰り返す形式だったそうです。当時、祖母は低学年だったので、難しすぎて何を言っているのかは理解できていなかったそうですが、これを言わないと朝礼が終わらないため、無心で繰り返していたと言っていました。
今は、内容を覚えてないから内容については特に何も言えないが、戦争がなければあそこまで大変な思いはせずに済んだのに、誰も死なずに済んだのに、とは思っているそうです。同時に、仕方のないことだった、とも思っているようでした。
C)戦前はどう扱って、どう思っていたか〈軍人勅諭〉
軍人勅諭については、やはり内容は詳しく理解できていなかったそうです。しかし、祖母の兄が、天皇の写真を防空壕に持ってきて保護するために、空襲が来ると奉安殿まで走ってその写真を取りに行っていたそうで 、それを見た祖母は、兄のその行動が軍人勅諭 の影響だと思っていたようです。
学校の正門の向かい側に奉安殿があり、その中に天皇陛下の写真 あったため、登校時も下校時もその写真に向かってお辞儀したり敬礼したりしていたそうです。終戦までは天皇陛下様々だと思っていたそうですが、信仰心があったというよりは、そうしないといけなかったからそうしていただけだと言っていました。


B)「教育勅語」について今どのように覚えていて、どう思っているか

 教育勅語については、正直ほとんど覚えていないそうです。祖母は弟を背負って小学校に通っていたために授業は廊下で受けさせられていたらしく、あまりまともな教育を受けていないから教育についてはよくわからないとのことでした。
C)戦前はどう扱って、どう思っていたか〈教育勅語〉
 特に何かを教育勅語だと認識していたわけではなかったそうです。
D)「からあげ」さんの感想
 私が小学校や中学校で習ったときには、軍人勅諭も教育勅語もその考え方が広く国民に認知され、それらが肯定されているという話だったので、本当にそうだったのだと思っていました。しかしながら、今回実際に自分の祖母に話を聞いて、軍人勅諭も教育勅語も表向きには重視しつつも、内心そこまで大事にしていなかった人もいたのだなと感じました。祖母は、私が話を聞く限り、僻地と言って差し支えないほどの田舎に住んでいたようだったので、田舎になればなるほど、東京から離れれば離れるほど、軍人勅諭や教育勅語の影響力も薄まったのかもしれないと思いました。
・2009年に82歳 祖母/2009年度前期・日本外交史「シャーしん」さん
(1)今の記憶:軍人勅諭については、詳しくは覚えていなかったが、軍人が天皇やお国のために忠節を尽くすというものだったということを覚えていた。「一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」などのフレーズも覚えているようだった。
 また、教育勅語については暗記させられたということだったので、内容や言葉も覚えているようだった。やはり天皇やお国のために忠節を尽くすという内容であり、「天皇のために死ね」と言われていたと言っていた。

(2)当時は:戦前は、天皇やお国のために死ぬことは当たり前であると思っていたと言っていた。

(3)今は:今考えてみると、やはり天皇のため、お国のために死ぬということは、少し違うと思っているそうだ。自分のために生きるのが一番大切なことであり、今をしっかりと生きなければならないと言っていた。

・2012年に84歳 祖父/2012年度前期「萩の月」さん
 1928年(昭和3年)生まれの祖父に聞きました。

<軍人勅諭について>

今の記憶:上司や政府、そして何よりも国に対して絶対服従すべきもの。

今思うと:当時は絶対服従が当たり前だと信じていたが、今は大反対な考え方である。よく我慢したものだと思う。言いたいことも言えずに嫌な思いを抱えることも多く、兵役についてからも、いっそ逃げてしまいたいほどだった。

戦前はどう思っていたか:絶対服従すべきもの。国のためと分かっていても、いつか自分自身も部下に教える立場になるのかと思うと、何とも言えない寂しい気持ちになった。

戦前はどう扱っていたか:手帳として渡されていて、訓練中も戦地でもいつも胸のポケットに入れてずっと持ち歩いていた。

<教育勅語について>
今の記憶:今でも一部は暗記している。当時は暗記していて当然のものであった。

今思うと:今はどう思って良いのか分からない。ただ、恐ろしい力を持ったものであるとは思っている。

戦前はどう思っていたか:礼儀であり、当たり前のものであり、当然であり、そして大事なものであった。あまりにも当たり前に存在するものであって、暗記していることが普通であり、変だと思ったことはなかった。

戦前はどう扱っていたか:当時はすべて暗記していて、毎朝みんなで復習するのが日課であった。

・2011年に84歳 祖母/2011年度前期「アノニマス」さん)
(1)今の記憶:学校で暗唱させられた言葉という印象が強い。

(2)今思うと:戦前戦中の空気を作っていたものだった。

(3)戦前当時は:ただただ天皇陛下が寄越されたありがたい考え方、守らねばならないものという感じだった。

(4)当時はどう扱っていたか:皆が大切なものとして尊んでいるのが当たり前という状態だった。
 

・2009年に80歳 祖父/2009年度前期・日本外交論「日本一の蹴られ役」さん
(1)今の記憶:軍人勅諭は覚える必要がなかったため出だしも言えない。教育勅語は割と長く覚えていて、「恭儉己レヲ持シ」までは言えていた。

(2)当時は:覚えるのを面倒くさいとは思っていたが、教育勅語そのものに対しては何も思っていなかった。当時としてはそれを覚えることが当然だったからと言う。

(3)今は:今でも何とも思っていない。時代は変わっていくものであり、当時において当然のことをしただけだ。

・2011年に82歳 祖母/2011年度前期「ラビ」さん)
(1)今の記憶:今も思い出せる。すらすらと教育勅語を暗唱していた。

(2)今は:戦後になってからは特に何も感じないようになった。“そんなものもあったな”という程度の感情しかない。

(3)戦前当時は:当時はとても大切にしていた。戦時中はそれに期待し、ある種、頑張る糧のようだった。

(4)当時の扱いは:ありがたいものとして、皆で唱えるものだった。とにかく重く、皆が受け止めていた。

・2011年に80歳 祖母/2011年度前期「三谷幸喜」さん)
(1)今は:軍人勅諭は「一つ何ちゃら」、教育勅語は「朕惟フニ…」しか言えないとのことでした。

(2)今思うと:教育というのは恐いもので、ずっとこれらのことを暗唱していたから、そのことを何とも思わなかったと言っていました。

(3)戦前当時の思いは:戦前は父が宮勤めだったこともあり、変だと思っていても、戦争に勝てるわけがないと思っていても、何も言えなかった。

(4)当時の扱い:小学校や女学校で朝礼があり、そのとき、みんなで奉安殿の前で暗唱していたと話してくれました。

・2011年に80歳 祖父/2011年度前期「いきものがかり」さん)
<軍人勅諭について>
(1)今の記憶:天皇陛下が軍人に説いた、軍人として持つべき心構えだったと思う。

(2)今思うと:天皇陛下が統帥権を保持していたので、陛下が軍人に訓戒をお与えになるという形がとられた。

(3)戦前当時は:礼儀、忠節、武勇、信義、質素など、軍人として持つべき心構えが説かれていると感じていた。

(4)当時の扱い:学校に配属された将校に匍匐(ほふく)前進や敬礼を習った時に軍人勅諭も教わったかもしれない。

<教育勅語について>
(1)今の記憶:「朕惟フニ…」という始まりで、父母に孝養を尽くすこと、兄弟仲良くすること、夫婦相和すこと、勉学に励むことなどが説かれていたことを覚えている。

(2)今思うと:礼節を重んじることなど、論語に通じると思う。古今の教育原理が網羅されていると感じる。

(3)戦前当時は:道徳教育のようなものだと思っていたので、ありがたいと感じていた。

(4)当時の扱い:学校の講堂に天皇陛下の写真が掲げられており、朝礼で集まった時に教育勅語が読み上げられていた。修身の授業でも学んだような記憶がある。
 

・2011年に80代 祖父、祖母/2011年度前期「ミッフィー」さん)
(1)今の記憶は:教育勅語は今でもうっすら覚えている。

(2)今思うと:すごいことを言わされていたんだな。

(3)戦前当時は:特にどうとも思っていなかった。儀礼的におこなっていた。

(4)当時の扱いは:学校で毎朝斉唱した。

・2009年に79歳 祖母/2009年度前期・日本外交論「march」さん
(1)今の記憶:祖母は昔のことだから忘れてしまったところもあるが、天皇陛下のお言葉でありがたいものと思っているようだった。祖母の友人は今でも全てではないが暗唱できるという。

(2)当時は:暗唱は強制で、覚えるのは大変だったが、覚えるのは当たり前のことだと思っていたと言っていた。祖母は、「やっぱり天皇陛下のお言葉だからね」と何度も繰り返していた。

(3)今は:あの頃は天皇陛下が一番の存在で、暗唱することも当たり前で特に気にしていなかった。戦争も早く終わってほしいと思っていたが、敗戦を知ったときはショックだったという。だが、時代が進み、いろいろなことが自由になっていき、あの頃よりもいい世の中になったと言っていた。今思うと、なぜ暗唱させられていたのかとも言っていた。

→「march」さんの感想:祖母に尋ねたことで、授業で習ったことを歴史上のこととしてではなく現実にあったことという認識をいっそう強めた。教育勅語について尋ねたとき、私はうっかり言い間違えてしまったのだが、祖母は「それは教育勅語のことだよ」と即答してくれた。もう80近くにもなるので、もしかしたら覚えていないかもしれないと思っていたので、祖母に即答されたときは正直びっくりした。祖母が「天皇陛下のお言葉」としきりに言っていたように、当時の子どもたちにとって、天皇という存在がいかに絶対的なものであったのかを実感した。
・2011年に79歳 祖父/2011年度前期「いちごケーキ」さん〕
(1)今の記憶:軍人勅諭については、5ヵ条があったこと。教育勅語については「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ……(約2文)」を今でも覚えていました。

(2)今は:「なぜあんなものを暗記させられたのか、とても馬鹿らしい」とのこと。

(3)当時は:暗記するのが当然。「嫌だ」などと言えば命がないので、違和感を持たないようにしていた。

(4)当時はどう扱っていたか:奉安殿(鉄製)の中に大切に保管されており、年に4回の国家の行事(元日など)には学校の講堂へ教頭が教育勅語(軍人勅諭も?)を慎重に運んだ。児童は集められ、国家への忠誠を誓わされたそうだ。

・2014年に82歳の祖父、79歳の祖母/2014年度前期「ふじっぴー」さん
〔※松本注:内容からたぶん「教育勅語」についてのみと思われます。〕
・今の記憶:小学校の4年〜5年の頃、校長先生が朝礼で、必ず読んでくれたことを覚えている。今も途中までなら言える。

・今から思えば:あの頃は天皇陛下の御言葉が絶対だから、だれもがその通りにしていた。今のような言論の自由がなく、逆らったら非国民と言われた。二度とこんなことがあってはいけない。

・当時はどう思っていたかは、小さかったためよく覚えていない。

・2011年に79歳、80歳の祖父母/2011年度前期「マリー」さん)
(1)今の記憶:小学生の時、講堂で先生が教育勅語を読んだ。(国の祝日や記念日の時。)

(2)今思うと:強制されているのではなく、みんなが勅語をありがたく思っていた。人間が生きていくために、学問と道徳が大切であるということが書かれてあった。

(3)当時の思いは:ありがたいと思っていた。

(4)当時の扱いは:日本国民としてやらなくてはいけないこと(親孝行すること、兄弟仲良くすること、夫婦は愛し合う)。戦前は勅語はいいものだったけど、東条英機がこれを利用して国民を戦争にもってった。戦後、先生が労働者になり、日教組を立ち上げたため、勅語が廃止になった。

・2012年に79歳 祖父/2012年度前期「エトピリカ」さん
 昭和8年生まれの祖父に奉安殿について聞きました。小学生の時、コンクリート固めの奉安殿があり、前を通るときは必ず下を向き、絶対に中を見てはいけないと教えられたそうです。扉を開けたりすることはもちろん、扉の隙間から覗くのもいけなくて、奉安殿そのものを見ることも恐れ多いということだったそうです。もし見たら目がつぶれると言われていたらしい。
→「エトピリカ」さんの感想:身近に経験した人がいると、歴史がずっと近くに感じられて、私たちは歴史を生きているんだなあと不思議に思えました。
・2011年に78歳 祖父/2011年度前期「マキシマム」さん)
(1)今の記憶:覚えさせられたことは覚えていたが、内容はまったく覚えていなかった。

(2)今思うと:戦争へ国民を導くことだったので、反省しなければならない。

(3)当時の思いは:覚えることが当たり前だと感じていた。

(4)当時の扱い:よく聞けませんでした。

・2011年に77歳 祖母/2011年度前期「テマンマン」さん)
(1)今の記憶:文章もおぼろげながら覚えている。

(2)今思うと:特に思い入れは深くない。

(3)戦前当時は:戦前もあんまり…。(祖父の方は大変ありがたいものとしていたらしい。)

(4)当時の扱いは:みんな仰々しいもののようにしていたが、子供の中にはそうとらえないものもたくさんいて、ふざけてはおこられていたらしい。

・2012年に77歳 祖母/2012年度前期「りんご」さん
<軍人勅諭について>
 開戦当時6歳、終戦当時は10歳とまだ幼く、教えられていなかったため、何も覚えていない。
<教育勅語について>
 式典のたび、校長先生が恭(うやうや)しく読み上げるのを、直立姿勢で首を垂れて意味も分からず聞いていた。冒頭の、「ちんおもうにこうそこそ」から「御名御璽」まで、何のことやらと今は覚えていて、今思うと、あれは何だったのだろうか。

 戦前においては感想はまったくなく、戦時色まっただ中で押しつけられるがまま、それが当たり前だった。天皇が神だった時代、ただ畏れ(おそれ)多く、この上なくありがたいものとされていた。批判や感想を述べることさえ禁じられ、反逆者と見なされたら即投獄された。それを恐れて、意見を述べることはタブーだった。今の北朝鮮とよく似ていた。

・2011年に76歳 祖父/2011年度前期「広島東洋カープを応援する会」さん)
 祖父に、今も勅語をそらんじることはできるかと聞いたところ、今はほとんど覚えていないとのことでした。祖父は戦前生まれ戦中育ちで、子どもの頃はひたすら天皇のためにと頑張って暗唱していたという話をしてくれました。今となっては、なぜあそこまで天皇のために尽くしていたのか分からないと言っていました。
・2011年に75歳 父方の祖母/2011年度前期「ミラニスタ」さん)
<軍人勅諭について>
(1)今の記憶:特に覚えがない。満州にいたため。
<教育勅語について>
(1)今の記憶:学校の奉安殿の中の巻物を旗日に聞かされるもの。

(2)今思うと:これがあったから我慢、忍耐力が当時の人にはついていた。

(3)戦前当時は:良い悪いのない、そういうものだと思っていた。

・2017年に80代 祖母/2017年度前期・日本外交論「思想」さん
・軍人勅諭:軍人の教えであったため、あまり記憶にないが、兵隊に憧れていた男の子たちがよく口にしていた。当時は、軍人ではない自分には直接関係が無いため、軍のルールという認識しかなかった。
→「思想」さんの感想:やはり軍人以外の民間人の間ではそこまで内容が滲透していないのではと思った。兵隊への憧れという言葉があったが、亡くなった祖父は特攻に志願しており、特攻要員として終戦を迎えた(もしあと数週間戦争が長引けば出撃していたかもしれない)。国を守る軍人は男子の憧れであり、自発的に軍人勅諭には触れていたのかもしれない。
・教育勅語:とにかく暗唱させられた。家族を大切になど今でも通じる価値観のものもあるが、あそこまですりこませる必要があったのかは疑問。当時は正しいとか正しくないかとかは考えたこともなく、何も疑わず暗唱させられていた。
→「思想」さんの感想:教育勅語は昨今も話題になっていたが、「天皇のために…」などといった表現は現在の価値観からは受け入れられないが、祖母が言ったように現代でも通じるものもある。内容は別にしても繰り返し暗唱させる一種の洗脳のようなやり方には違和感をおぼえる。
・2012年に70代 祖父母/2012年度前期「抹茶」さん
 祖父、祖母ともに70歳以上で、話を聞くと、戦争に関することは思い出したくないな、本当に悲惨だったからと言っていて、多くを話してくれませんでした。でも、当時は国のために天皇のためにという風潮で、防空壕に入るのがとても怖かったと言っていました。祖父は、戦争で兄を亡くしており、本当に辛かったと言っていました。
・年齢不明、祖父/2011年度前期「おせんちゃん」さん)
(1)今の記憶:祖父は戦時中小学生だったため、兵隊に入っていなかった。よって教育勅語はよく覚えているけど、軍人勅諭は名前ぐらいしか知らないそうです。軍人勅諭の方が教育勅語より文が長かったようなイメージは覚えているそうです。また、教育勅語の一部は今でも暗記していて、スラスラと言っていました。

(2)今思うと:今は特に何とも思わないけど、「今教育勅語を覚えている人はほとんどいないんだべな」と言ってました。

(3)戦前当時は:「国のためだ」と思い、みんなで覚えていたそうです。

(4)当時の扱い:正月の儀式のような時、校長先生が生徒の前で教育勅語を読み上げて、生徒全員で暗唱したそうです。この正月の儀式では、学校の奉安殿の中にある御真影を取り出して、集会のステージに飾ったそうです。

上記以外にも面白い話をしてくれたのでまとめます。
  • 私の祖父は山形県東村市に住んでいました。祖父の小学校では当時は戦時中ということもあり、授業のほかに食糧増産のための畑仕事の時間、近くの神町(じんまち)飛行場の玉石拾いの時間があったそうです。また、長期休みのほかにも田植え休み、稲刈り休みという期間もあったそうです。
  • 神町の飛行場で小学生が玉石拾いをした後、コンクリートで舗装していたようです。神町の飛行場では実際の戦闘機が離着陸することはなく、「赤トンボ」と呼ばれる小型飛行機の練習がおこなわれていたそうです。でもこの「赤トンボ」は、のちにアメリカ軍によって焼却処分されたそうです。
  • 戦争当時、祖父は小学生だったため徴兵されることはなかったのですが、祖父の父や親戚は2年間ほど徴兵されたそうです。小学校の担任の先生も徴兵のため3、4回入れ替わりがあったそうです。祖父の父は青森に徴兵され、馬使いの担当をし、山形に帰ってきた頃、馬の扱いがうまくなっていたそうです。
  • 祖父たちは小学校に登校すると、校門に入る前、必ず奉安殿に最敬礼をして、それから校門に入っていたそうです。また先生たちが天皇の話をする時は、直立不動でその話を聞いていたそうです。
  • 当時の日本を振り返ってみると、祖父は「日本国民はみんな騙されていた。日本には武器がなかったし、そのことを国民は分かっていなかった。日本はアメリカに勝てるわけがなかった」と言っていました。
  • ・年齢不明 祖父/2011年度前期「TTB」さん)
     祖父に聞いたところ、教育勅語などを覚え込まされたことを覚えていて、今では、ただの思い出だと言っていて、戦前は覚えることや、それがあることが当たり前のことで、それらを守ることが絶対であるという風に扱っていたということだった。
    ・年齢不明 祖父母/2011年度前期「上杉謙信」さん)
    (1)今の記憶:今でも教育勅語は覚えていて、すべて言えるらしい。

    (2)今思うと:今となっても、内容としては間違ったことを言っていないと思うと言っていた。

    (3)当時は:戦前は覚えていて当然のことだと思っていたらしい。

    (4)当時の扱いは:学校で暗記させられていた。当時の子どもはほとんど暗記できた。

    ・年齢不明、祖母/2011年度前期「みーこ」さん)
    (1)今の記憶:今はほとんど忘れてしまった。

    (2)今思うと:今は何とも思わないかな。

    (3)当時は:天皇が私たちにくださったお言葉で、ありがたいもの。

    (4)当時の扱い:とても尊いものとされ、当時は暗唱することができた。天皇と国民のつながりを示すもの。

    ・年齢不明、祖母/2011年度前期「ひこにゃん」さん)
    (1)(2)今はもうあまり記憶になく、今も、これからも、必要は無いものだろうと言っていました。

    (3)(4)当時は大事なものとして教えられていて、暗記させられたと言っていました。

    ・年齢、性別不明/2011年度前期「ポンず」さん)
    (1)今の記憶:最初の方だけうっすらと覚えていた。

    (2)今は:内容は悪くなかったと思う。今の教育は乱れていっているから、良いところは取り入れていっても良いのではないかと思う。

    (3)当時は:小学生だったので、内容はあまり理解せず、暗唱させられていた。

    (4)当時の扱いは:ちゃんと暗唱できないと木刀などで叩かれたりもした。

    ・年齢、性別不明/2011年度前期「ヘッケル」さん)
     学校の朝礼で毎朝読み上げさせられた。でもそのおかげで人殺しがなくなっていると思っていた。今では内容はきれいサッパリ忘れてしまった。今、当時のことを思っても、そこまでバカらしいものとは思わず、今で言うラジオ体操のようなものと思っている。
    ・年齢、性別不明/2011年度前期「ooisidamaitake」さん)
    (1)今の記憶:さすがに暗誦はできないが、だいたい覚えている。

    (2)今思うと:最近はほとんど愛国心というものを聞かないが、こういった気概も必要なものだと思う。

    (3)当時の思いは:当然のことだと思っていた。

    (4)当時の扱いは:当時は小学生だったが、重要なこととして教わり、暗記させられた。

    ・年齢、性別不明/2011年度前期「タマ」さん)
    (1)今の記憶:軍人勅諭は暗唱させられ、教育勅語は校長先生が祝日の儀式で読み上げる。

    (2)今思うと:軍人勅諭はあまり守られなかった。

    (3)当時の思いは:従わなければならないと思っていた。

    (4)当時の扱い:天皇からの命令なので大切に扱っていた。

    ・年齢、性別不明/2011年度前期「くま」さん)
    (1)今の記憶:暗記させられた。天皇のために頑張る、お国のために勉強しなさい。意味はわからず、ただそれが正しいとされた。

    (2)今思うと:ただ言いなりになっていた。戦争に負けてから、「これではだめだったのだ」と思った。

    (3)当時の思いは:正しいと思っていた。天皇のためなら死んでもよいという考え。毎日御真影に毎日最敬礼。

    (4)当時の扱い:大事に大事に。さわることもできなかった。今となっては、訓練などは何だったのだろうと。

    ・年齢、性別不明/2011年度前期「junkfood」さん)
     軍人勅諭と教育勅語は入試でも出るために暗記をしていた。世の中の流れとしてそれが当然であり、必死になって覚えていた。実際に校長先生との口頭試問で暗唱してみせたこともある。今となっては良い思い出である。