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「バブル経済」

文責:松本邦彦
(2020年09月08日(火)に増築/最終更新時:2022年03月23日(水)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。

聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。

〔目次〕

高校生><山形のデパートで><福島の好景気><新潟の好景気><温泉旅館にて><羽振りの良さ><スキー場><公共事業にて><公務員><ジュリアナ東京><海外旅行><バブル経済期の就活><バブル破裂後の就活
筆名の年度別・五十音順さくいん(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が
      違うかも…)
2021年度後期
AMY」「IOA」「MRT」「TKY
2020年度後期
「ESR()」「FCT」「HET」「HFY」「IIS」「IKT」「IUM」「SBT」「SKH」「SKK」「TWM
2019年度後期
千番代

<高校生>
・バブル当時に札幌在住、17歳の高校生だった父/2020年度後期・日本外交史「IKT」さん
 父は当時高校生でしたが、部活には入らず、朝は新聞配達、学校が終われば引っ越し業者でのアルバイトをしており、休日となれば一日中アルバイトなんてことも少なくなかったそうです。そのため、本人曰く「普通の高校生よりお金をもらっていた」とのことです。

  父の話によれば、当時は高校生ながらも(普通の高校生よりお金を稼いでいたことまりますが)高い買い物をしていたと言っていました。バブルによって収入が 多く、それによって高い買い物もできたそうです。具体的には、当時の最先端のスピーカーやラジオを買ったり、信じられませんがネックレスまで買ったりして いたそうです。

 父に言わせれば「今の時代に比べて、消費が激しい時代だった。今が『悟り世代』と言われる理由がそこにあるのかもね」とのことで す。確かに、今の時代、高校生や大学生が積極的に消費をしているようには感じられませんし、バブル当時の状況を考えれば、今が消費をあまりしない『悟り』 ということにも納得がいきます。しかし、当時の彼らに「貯金」という概念がないのか、少々疑問に思いました。バブル崩壊と共に金融が破綻し、銀行が倒産す ることを考えれば、(結果論にはなりますが)銀行貯金をしなくて正解だったのかもしれませんが。それまでも見越して貯金をしなかったのならとても聡明な父 なのですが、もちろんそんなことはなく「お金があったから、欲しいものが手に入った」と苦笑しながら言っていましたが。

 父は一つ面白い質問を投 げかけてきました。「お前、いっぱいお金があったら、それ使おうとは思わないのか?」と問いかけてきたのです。この質問には考えさせられました。というの も、父曰く「今の若い子はかわいそう、大学卒業を前提とした就職に、初任給はだいぶ低い。おまけに奨学金を借りている。せっかく社会に出てお金をもらえる のに、これだと自分のためにお金を存分に使えない」とのことで、まさに今と過去の話を比較している感じがしました。

 父の感覚としては、お金がも らえるようになる=自分のために使えるお金が増え、趣味や娯楽に興じることができる、らしいです。もちろん、マイホームを購入した時や配偶者との生活費は あるものの、それでも収入から自分のためのお金も十分に確保でき、それで娯楽や趣味に興じることができたというのです。

 現在だと、社会に出ても 奨学金の返済や平均年収の低下(国税庁「民間給与実態統計調査」によると、1990年代の平均年収は約455万円、それに対して直近十年では418万 円)、それに消費税などで支出が多く、父のいうような消費はほとんどできない状況になっていると思います。つまり、現在の若い人は「お金がそもそもないか ら、消費を拒んでいる」ということです。

 私自身、北海道から山形県に来て一人暮らしをしているわけですが、やはりお金がないので、消費を拒んで います。当時より今の方が大学進学率も上昇し、インフラも設計され、衛生だって整い、ネット環境も急速に整いつつあるのに、どうしてこうも消費に対して苦 しいのか、疑問に感じました。先ほどの父の問に私は「それは、まぁ使うよね、欲しい物いっぱいあるし」と笑って答えました。当時の状況を聞くつもりが、ま さかここまで考えさせるとは思いもしませんでした。

・1990年当時に18歳で山形の高校生だった母/2020年度後期・日本外交史「IIS」さん
  母が当時の思い出で印象にのこっているのは「花金」という言葉がはやったことだそうだ。金曜日に夜遅くまで遊ぶことを意味する言葉だそうだ。週休2日制が 導入されて、金曜の夜に遊びまわる風潮が当時はあったようだ。私はこの言葉を聞いたことがなかったため、初めは何を意味する言葉なのかわからなかった。私 が知らないということは、今の労働者にはそこまでのゆとりがなくなり、金曜日に遊びまわることを意味するこの言葉は使われなくなったのだと思った。田舎に 住んでいてそこまで円高不況とバブル経済の影響を直接は受けなかったといっていた母が連日テレビや新聞で使われていた花金のことだけは印象強く覚えている といっているので、世間はバブルの話題であふれかえっていたのだと分かった。

  今回の聞き取りで分かったのは、バブル経済の時は本当に日本が盛り上がっていたのだということとメディアの影響が大きいということだ。私の母が花金という 言葉を印象強く覚えている理由は連日テレビで取り上げられていたからだと語ってくれた。2021年現在から30年ほど前の出来事で最初に思い出したのがテ レビで放送されていたという記憶なのだから、私の母はテレビにとても強い影響を受けたのだ。このことから、メディアというのは世間の人々に強い影響を与え ることができるツールなのだということを理解できた。メディアは正しく使わなければならないのだと思った。今現在でもメディアで今は好景気と唱え続けれ ば、国民みんなが勘違いし、再び不適切な好景気が来るのかと思ったら少しぞっとする。政治でメディアを利用して国民に呼びかけることはとても大事なことだ が、慎重に検討し正しく使ってほしいと心から思った。

・1990年当時は18歳で福島の高校生だった父と母/2020年度後期・日本外交史「SKK」さん
 父は当時はいろんなところでバイトをしていたそうです。一部を紹介します。
1.旅館
  一回で3万円、土曜の夕方から翌日の朝までが勤務時間。つまり、一か月で12万円。客が寝ている間は暇、別に休憩もある。休んでいても給料は発生するので とても楽。高級ホテルだったらしく休憩部屋も用意してあって、暇なときはそこで休める。他にたくさんの高校生が働いていて働く量はそこまで多くはない。温 泉が入りたい放題、まかないもまるでお客さんかのような量をもらえる。送迎付き。
 2.    血液を運ぶお仕事
 時給2000円くらい。勤務時間の5時間に運ぶ作業をしたのは片道2キロの距離を10回くらい。ものすごく暇だった。暇な時間のほうが多かったので、どう時間をつぶすかを毎回考えていた。それでも給料は発生する。
 3.    結婚式場
   時給2000円くらい。コックさんの手伝いや品運び、盛り付け作業をしていた。いまと同じように普通に忙しかった。昔なので、お客さんの食べ残したタイ や高級な料理などをお持ち帰りしていた。盛り付けや手伝いが評価されて、一緒にお店出さないかと言われたが断った。他のバイトでも評価されて、一緒に働か ないかと言われることがあった。父は、当時はお金稼げたのでそういう人がいたのではないか。と言っている。いま考えても一緒にお店出さなくてよかったと いっている。
 4.    缶詰工場
 月10万円以上。土日に8時間勤務だったこともあり、当時では全然稼げないほうだったらしい。父は、高校生がほかにもたくさんいたからバカにしてんじゃないか。と言っている。今、考えれば絶対月64時間働いて10万円以上は稼ぐのがだいぶ難しいと思う。
→当時の体験の聞き取りをしてみての「SKK」さんの感想など:父 は当時バブル経済であることがわからなかったらしい。むしろ、つい最近になるまでバブル経済であることがわからなかったらしく、私がバイトで得た金額の話 をすると稼げなさ過ぎて驚いていた。確かに、今私が働いているバイト先は他と比べても給料が安いほうなので驚くのも無理はないと思った。父と同じ時代に生 まれていたら、私も大学に行かないでバイトをしていたのだろうと思った。
 母は福島市内のお寿司屋さんでバイトをしていました。
 時給は当時最低賃金の500円くらい。午後の2時からその日の7時までが勤務時間。一か月で3万くらい。ちなみにこのお寿司屋さんは今市内にはない。チェーン店だった。母自身もバブル経済には気づかなかったらしい。
→当時の体験の聞き取りをしてみての「SKK」さんの感想など: 本当は感想票には書かない予定だったが、父はバブルの影響をすごい受けているのに、母は全く受けていないのがおもしろく感じたので書いた。同じ福島市内 で、まだバブル経済の中なのに全く影響を受けていないのは不思議でたまらない。父の缶詰工場よりもむしろこっちのほうが高校生だからと馬鹿にされていると いえなくもないと思った。
山形のデパートで>
1990年当時30歳前後で山形の十字屋(寒河江店)で働いていた母/2020年度後期・日本外交史「SKY」さん
 初売りの福袋(二万円の商品券にメロンまたは生ハム付き)が開店から30分ほどで100組全てが完売した。また他にも百万円の車一台に毛皮一着が付く福袋も二点あり、すぐ完売したがそのあと買いたいという人が何件か問い合わせもあった。

 母が扱っていた婦人服売り場では3万円ほどのブラウスをお勧めしても「もっと高い商品はないのか」というお客様もいた。高額な商品が欲しいということをよく聞かれた。洋服もマネキンに飾ってもすぐ売れてしまう状態で、売り場がにぎわっていた。

 忘年会や新年会の時期は特にパーティー用のスーツやおしゃれ着が飛ぶように売れた。その理由は地元の企業も景気が良く、会社負担で開催するパーティーがあったからだ。

 当時、会社負担の社員旅行も多かったので旅行着の衣服が良く売れたそうだ。このように売れた時はレジが大量の一万円札で閉まらなかったそうだ。

 当時の十字屋は景気が良くて、正月は大入袋がもらえたそうだ。商品会議や仕入れのために月二、三回は東京の本社に飛行機や新幹線で主張にも行っていた。また本社からも幹部の人やバイヤーの人も度々支店に視察に来ていた。

  次に母個人のバブル時代の経験について聞いた。母はポール・マッカートニーやジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンのコンサートのためによく上京して いた。そして赤坂プリンスホテルやセンチュリーハイアットホテルなどの高級ホテルに泊まり、銀座やデパートでブランド品を買い物するのが独身貴族のステー タスだった。またスキーが大ブームで、スキー板やスキーウェアが凄く売れて、スキー場もリフト待ちするくらいに混雑していた。雑誌やメディアでも景気の良 い情報や広告が打ち出されていた。海外旅行も大人気でどこに行っても日本人だらけであった。海外のブランドショップは日本人のお客の行列で会計にとても時 間がかかった。
  母が言うには昭和の後期からバブル当時はキラキラと華やかに輝いていた時代であると話していた。

→ 「SKY」さんの感想:今回、母からバブル時期の話を聞いて、前々から気になっていた建物について詳しく知ることができました。それは寒河江市にある商業 施設のフローラ寒河江です。この建物は古い外観で中も壁がはがれていたり、空きテナントとなっていたりとかなり廃れているので気になっていました。そして 感想票を機にこの建物が、昔母が働いていた十字屋寒河江店だったことが分かりました。当時32店舗目の支店で百貨店で開店し、最後の出店で後にダイエー FC店に業態転換したと聞きました。資本力の大きい会社であることが凄く感じられました。現在は町の中小企業やゲームセンターなどが入る商業施設です。し かし昔は繁盛していた風格がある百貨店だったことにとても興味深く感じました。
〔※松本注:フローラ・SAGAE https://www.flora-sagae.jp/ 〕
  私は百貨店に行ったことがないので行ってみたいとも思いました。しかし最近、残念なことに大沼デパートが閉店しました。この百貨店も歴史ある百貨店だった そうなので一度は訪れてみたかったです。さらにこの調査を機にフローラ寒河江以外にもバブル時代の建物が現存しているということなので母だけでなくいろい ろな人に聞いてみたいと思います。
〔※松本注:「所得倍増」ページに、その「大沼」で働いていた人の体験談聞き取りがあります。〕
<福島の好景気>
・バブル当時は40代前半だった祖母と、高校生だった母(2021年度後期・日本外交論2「MRT」さん)
・バブル当時40代前半で、福島県山間部に住んでいた母方の祖母の体験談
 質素だった生活が、どんどん贅沢になっていったように思える。雇用が増え、誰もが働き、働けば働くほど給与も上がっていった。かなり忙しい毎日だったが、夜は出かけてばかりの人が多かった。働けば満足いく額の賃金を得ることができ、とても楽しかったそうだ。貴金属やブランド物の売られる数が激増し、高級市場はかなり潤っていたという。祖母も、着物と宝石を買った。

 それまでは現金払いしかなかったが、「月賦払い」が登場した。郵便局に行って返済額を送金したり、通帳から引き落とされたり、家に月賦の集金が来るシステムもあったそうだ。

 カラオケはほぼ毎日行われていたという。出かけることのできない人でさえ、自宅でカラオケや飲み会を開いているほどだった。職場、友人グループ、サークルなどが増え、皆活発に遊んでいた。旅行に行く頻度も増えた。海外旅行も当たり前のように選択肢にあった。
 

→聞き取りをしての感想:かなりの田舎ではあったが、バブルの風は吹いていたようだ。
・バブル当時は高校生で、福島県山間部に住んでいた母の体験。その後、福島市を経て東京に就職した。
 母が言うには、地元にバブルがやってきたのは都市部よりも遅かったそうだ。23歳から25歳ごろが福島県のバブルだったという。

 高校を卒業して働いた同級生たちは、入ってすぐの夏のボーナスで50万円ほどを貰っていたと聞いたという。冬のボーナスは100万円だった。そのお金を貯める人などほとんどおらず、すぐ使い果たしてしまっていたそうだ。地元の建設会社も潤い、スキー1日券を配ったりしていたという。

 働きに出かけている人々は、昼に弁当を持っていくことがほとんどなかった。しかし、東京でワンコインで昼食をとるのは難しく、1000円ほど使うのは当たり前だった。夕食も外食が基本だったそうだ。年に2回の海外旅行を当たり前のようにする同僚が多くいたという。

 祖母は役場主催の補助金付き勉強会という名のただの海外旅行にたくさん行っていた。税金で補助され、よりお得に海外に行けるということで当時の流行だったそうだ。

 どんなものであろうとも、「定価・新品で買うことが当然」という価値観が存在したという。古着は完全に否定されていて、吉祥寺に少しヴィンテージショップがある位だったそうだ。車で言うならば、三菱のパジェロやオフロードなどの高級車、外車を乗り回す人が多かった。ファッションでは、木村拓哉の着用していたダウンジャケット、浅野ゆうこが着ていたラルフローレンなどが爆発的に売れていた。「ロンバケ」は今でも、バブル時代に憧れ懐古する人々が多いが、その当時の人気は計り知れなかったという。

 ラルフローレンはアメリカで買う方が当然安い。そのため、ハワイ旅行のついでにラルフローレンのアイテムを購入してくる人が多かった。その他にも、みな財布や時計、バッグもブランド品を求めたため、ハワイやソウルで偽物を購入してくる人も多かった。

 そのような中で、テレビで大阪人が代金をまける姿を見て、衝撃を覚えたという。東京に住む人はプライドが高く、そのような事は絶対に言えなかった。

→聞き取りをしての感想: 私はバブルの頃のファッションや、文化に興味を持っている。「ジュリアナ東京」で踊る人々の写真を見ると、自分もその時代に20代くらいの人間として生きたかったと強く思う。今回改めてバブル周辺の社会の空気感などを聞いたことで、より理解が深まったと同時に、想像してもしつくせないほどの事象があり、行き過ぎたインフレの恐ろしさを強く感じた。特に役場が旅費を補助する旅行についてはかなり驚いた。ある程度豊かになっても、リスクのためにお金を取っておこうとする人も多いと思うのだが、使っても湧いて出てくるのならためておく必要はない。そんな考えを皆に持たせた経済の不健全さに何回も驚かされる。今の雇用状況では信じられない。意外と偽物を買う人が多かったことには、「インスタ映え」のために無理をする人々などのように、現在にも通じるものがあると考えた。
<新潟の好景気>
・バブル当時は20代前半の会社員だった母。新潟県旧北蒲原郡中条町(現在の胎内市)居住(2021年度後期・日本外交論2「IOA」さん)
 
・当時のステータスとなっていたもの
 社会はバブル景気によって「浮かれていた雰囲気」があった。海外ブランドブームが巻き起こっていた。アルマーニ、グッチ、ルイヴィトン、エルメス、ティファニーなどのフランス、イタリアが発祥の高級ブランドが大流行した。

 国内で買うよりも海外の免税店に行った方が上記のブランド品は安く買えたらしい。海外旅行の方が安く行くことができ、行くことが当たり前だった。簡単に安く海外に行くことができたため、入社してから3〜5年くらいだった母も2回イギリスに行ったらしい。ロンドンに1週間いても当時はオフシーズンでは、15万円ほどで旅行に行くことができたそうだ。パリ、ローマ、ハワイなどの免税店で限定品を買うなど、海外旅行でブランド品をひたすら買いあさる若者が多かった。海外でブランド品を買ったことを自慢することがよくあったそうで、ブランド品を持つことがステータスとなっていた。

 そして、BMWやメルセルス・ベンツといったドイツ車に乗る若者が多かった。アルマーニのスーツを着て、高級車に乗り、高級フレンチに連れていくのが当時行われていたデートであり、ステータスとなっていた。

 当時は食事をした際は、男性が全額払うのが「当たり前」で、女性側もおごってもらうのが「当たり前」だと思っていたらしい。一方で、合コンでは1回目は男女ともに割り勘だったそうだ。また、結婚式もとにかく派手でハワイで式を挙げるカップルが多かった。

・新潟県とバブル景気
ブランドバックで、ボディコンスーツ、ハイヒールで通勤している女性が多かったらしい。新潟市内の中小企業でもボーナスが3回出た年もあったそうで、当時実家から通勤していた母は、かなり貯金できたと言っていた。母が会社員だった頃は新潟市にも「マハラジャ」があり、行ったことがあるそうだ。また、上司との飲み会は上司に奢ってもらうことがほとんどだったそうだ。
 ・バブル景気とスキー
 『私をスキーに連れてって』という映画があり、そこから空前のスキーブームが起こった。その時代に多くのリゾートホテルが建てられた。群馬県との県境にある新潟県湯沢町では、多くのリゾートホテルが建てられたそうだ。その時に建設された駅が「ガーラ湯沢駅」である。新幹線のホームとスキーセンターが直結しているため利便性が高い。現在でも利用されている駅である。

 新潟県は田中首相の恩恵により、関東へのアクセスが良い。そのため、関東地方から湯沢町にスキー来る観光客が多かった。スキーを車に積んでいる人が多く、道路は大混雑だったらしい。スキー場でお正月を迎える人も多くいた時代だった。

→聞き取りをしての感想:
  景気が悪い世の中しか知らない私にとっては、全く想像がつかないことが多かった。海外ブランド品を買いあさる点について、しばしばニュース等で報道されていた「爆買い中国人」に似ていると感じた。海外ブランド品は現在でも人気が高いが、当時のように簡単にできる買い物ではない。

 バブル期では、自分の習い事にお金をかけることが多かったらしい。常に何かをやっていたい・求めていたい、いわゆる「上昇志向の強い」時代だったそうだ。バブル期を楽しんでいた母は今でも「私は夢見がちだ」と言っていて、バブルの習慣が抜けていないと話していた。バブルの影響は多くの日本人の価値観を変えるものとなったことが考えられる。


<温泉旅館にて>

・2019年度後期・日本外交論2「千番代」さん(※松本より:旅館の名称などを一部伏せました
 私は今回の感想票で、バブル期における私の実家の様子についてまとめた。バブル期の様子を選んだ理由として、日本外交論2第10回講義の「プラザ合意」に触発されたためである。この感想票を執筆するにあたり、私は冬休みに帰省した際に私の祖父から話を伺うことができた。

 私の出身地は群馬県中之条町にある沢渡温泉という小さな温泉地である。群馬県の北西部に位置しており、近くには有名な草津温泉や四万温泉がある。加えて、私の実家は「○○旅館」という温泉旅館であり、2020年に開業から○年目を迎える。

※松本注:沢渡温泉(さわたりおんせん)公式ホームページ http://www.sawatari-onsen.sakura.ne.jp/index.html
 バブル期当時、建築業に従事する労働者の日給が3〜4万円であり、ゴルフといった娯楽を週2回楽しむことができたそうである。また、公共事業関係や都市 部の企業によって土地が高値で買収され、その土地を所有していた人が儲かるといった現象も起きており、沢渡温泉でもゴルフ場建築を目的とした土地の買収が 行われた。

 私の祖父が40代で2代目の社長を務めていた当時、「○○旅館」は現在より小規模でありながらも来客者が増加傾向にあった。来客者の多くは土地 売却で儲けた人々が中心であったが、興味深いことにその殆どが埼玉県深谷市から訪れた人々であった。当時、埼玉県深谷市の大部分は農村地帯が占めており、 バブルによって道路や住宅地が建設され、土地を売却して儲かった「道路成金」、「住宅成金?」と呼ばれる人々が毎月10日近く、沢渡温泉の「○○旅館」に 滞在していた。また、それらの来客者の中には深谷市を代表する人物である渋沢栄一のお孫さんも滞在しており、祖父によると「非常に礼儀正しいお嬢様だっ た」とのことであった。

 祖父の話を通じ、バブル期の沢渡温泉「○○旅館」では埼玉県深谷市を中心とした土地売却で儲けた儲けた人々が多く滞在していたが、それ らの人々のその後について疑問に感じた。バブル崩壊後、土地を買収した大企業等は大きな損益を被ったが、売却をした人々は買収されたことによって大儲けを している。あくまで推測であるが、仮に得た資金でさらに不動産の売買を行っていたのであれば大企業と同じように損益が出た可能性があるが、旅館を訪れた来 客者の多くは破綻せずにその後を乗り切ったと考える。

<羽振りの良さ>
・1990年当時は20歳で東京の短大生だった父/2020年度後期・日本外交史「FCT」さん
 円が強すぎて大変だった。ジャパンマネーが世界を圧倒した。1ドル80円代になった。そのため輸出企業が大変だった。

 クリスマスにみんなお金を使った。いい車じゃないと女の子にモテない。お金は稼げたけど、その分いっぱい使った。クリスマスディナーは1万5千以上だった。割り勘という言葉はなかった。

 ジーパンにジャケットが流行った。イタリアのスーツでヴィトンのセカンドバッグを持ってた。ブランドものばかり買ってた。イタリア製のものが流行った。ティラミスとマハラジャとディスコが流行った。ユーロビートが流行り、ディスコでみんな扇子もって踊った。

 トレンディドラマが流行った。革靴に裸足が流行った。メッシー(ご飯を奢ってくれる人)、アッシー(送り迎えしてくれる人)がいた。ワンレンボディコン、コンサバが流行った。

→ 「FCT」さんの感想:バブルという単語は小さい頃からテレビなどで聞いたことがあり、なんとなくは知っていましたが、なんとなくしか知らなかったので、 今回の父の話を聞いてバブルがどのようなものだったのか知ることができ、とてもいい機会だったと思います。お金がたくさんあったことは知っていましたが、 まさかここまでとは思いもしませんでした。

 今でもブランド品の服やバッグなどを持っている人、買い集めている人をたまに見かけます。もちろんい い素材を使っているのでしょうが、ほとんどネームバリューじゃないのかと思ってしまいます。私がブランド品にあまり興味がないせいだとは思いますが、安く ても見た目や使い勝手がいいものはたくさんあります。にもかかわらずわざわざ高いものを買うというのは愚かではないかと思ってしまいます。個人の自由なの で別に否定したりはしませんが。

 バブル時代の人は他にもあちこちで大金を使いまくっていたと考えるととても信じられません。ましてやうちの親が お金を使いまくっていたことがなにより信じられませんでした。正直結構なショックでした。もっと賢く使うことができなかったのだろうかと思ってしまいます が、それほどまでにお金が有り余っていたのでしょうね。「私だったらもっとこうする。」などと考えてしまいますが、実際お金がたくさんあったらどうなって しまうのでしょう。自分がお金をバンバン使っていたらと考えると少しゾッとします。バブルって怖いですね。何よりお金があると上記に書いたようになってし まうヒトが怖いです。

<スキー場>
・1990年当時は23歳で千葉県で製造業で働いていた父/2020年度後期・日本外交史「ESR」さん
 
 毎日飲みに行った(カード使いたい放題だったから)。スキー場巡り(ワンシーズンで他県まで何回も)をして、映画『私をスキーに連れてって』の長野のスキー場にも行った。
※松本注:『私を…』は1987年11月公開の日本映画。挿入歌「恋人がサンタクロース」も有名(歌自体の発売は1980年)。
 金に一切困らなかった。金借りて当たり前(全然恥ずかしくないこと)だった。携帯電話が出てきた(手提げの電話)。

 就職氷河期ではなかったので普通に就職(氷河期だったとしても工業高校出身だったので問題なし)。ディスコ行った(東京のよりは小さい)。生産業〔※松本注:「製造業」か。〕だったので給与は微妙で、海外旅行は流石に行けなかったけどその代わりスキーへ行き、タクシーは使わずほぼ電車だった。

→ 「ESR」さんの感想: だいぶバブルっぽい話が聞けました。20代前半で毎日飲みに行きカードを使いまくっていたのは衝撃でした。父はスキーに行きまくっていたようです。スキー するには移動費、リフト券などなんやかんやでお金がかかりますが何度も行っていたようなのでバブル時の羽振りの良さがうかがえます。金に一切困らなかった のはバブルのイメージ通りです。今はお金を借りることに抵抗を感じますが、バブルではみんながお金を持っており、みんなが持っているものを借りるだけでし たのでお金を借りることで抵抗がなかったのではと考えました。カードが使いたい放題なのは今では考えられないです。バブル期でも職業によっては給料が少な いのは今と変わらず。バブルだからと何もかもが大盤振る舞いというわけではありませんでした。

  バブル中はとても楽しい生活が送れていたようです。

 バブルで手に入れた大金を使わずに残しておいたら、今頃いい生活ができるのか気になりました。

 一度はバブルのような経験をしてみたいです。


1990年当時は長野で20歳で公務員をしていた母/2020年度後期・日本外交史「SBT」さん
 

各地のスキー場・リゾート地が人で混雑していた。
→ 「SBT」さんの感想:私は新潟県出身で今も新潟県に住んでいますが、たまにニュースで、バブル当時にリゾート地として賑わい、リゾートマンションや高級 マンションが多く建てられた場所が、今はほとんど人がいない状態のまま残っていると取り上げられることがあります。そのマンションは今現在の新型コロナ ウィルスによる地方移住増加に伴い、移住先として人気で、当時の高級マンションを安くして活用しているとのことでした。こうしたバブル当時の名残というか 遺産といった建物や、建物に限らず様々なものは、新潟に限らず全国の地方にあると思います。それらをただ取り壊すのではなく、この事例のように有効活用し ていけないものかと思いました。
<公共事業にて>
 
・1990年に50歳前後だった母方の祖父について/2020年度後期・日本外交史「HET」さん
 
  バブルがあったのは1986年から1991年です。なので、私は1970年生まれの母なら何か知っているのではと思い電話で聞いてみました。すると、母は 高校生だったためバブルでのいい経験はなかったそうです。ですが、母の父つまり(私からして)祖父(1940年生まれ)がその頃自営業を始めて、相当儲 かったという話を聞きました。道路の舗装の自営業で、国や地方自治体から仕事を依頼され、仕事をしていたそうです。相当儲かったみたいなので、その頃の日 本自体も景気が良かったのだと推測されます。


 また母が話してくれた友達の話によると、タクシー代として1万円を本当にもらっていたそうです。私はこれに関して本当にこんな話があるのだととても驚きました。

 バブル崩壊による被害はあまりなかったそうです。母が言うには自営業であまり大きな会社ではなかったためだと言っていました。

 以上が前回提出した感想票の内容ですが、年末年始に実家に帰省したのを機にバブルを経験をした父母、祖父に意見をきいたので説明したいと思います。

 母はバブル時学生だったのでわからないそうです。しつこく聞いてみたのですが、無縁だったのでわからないと言われてしまいました。と思っていたのですが、翌日思い出したと言われ、聞いてみると、想像以上にすごかったそうです。
・車検を2回通さずして、新車に乗り換えていた。
・大学生がレストランを借り切って誕生日パーティーをしていた。
・免許取り立てで高級車を買い与えられた。
・会社訪問へ行ったら就職が決定した。
・短大卒の初任給が23万だった。 →現在の大学卒業の新入社員の平均初任給は206,250円です。これを見るとすごく多くもらっていたということになります。
・洋服に肩パットが入っていた。
・夏冬の賞与以外に決算時には特別賞与が出た。
・年2回の社員旅行は国内と海外だった。
 父にはいっぱい仕事があったそうです。音響照明設計施工管理の仕事についていたそうです。結婚式場であったり、ホールの仕事が多かったそうです。やはり戦後は、ベビーブームがあったのでそれと同時に結婚のブームもあったおかげで、そういった仕事が多かったのではないかといっていました。
  祖父は亡くなった祖母の話をしてくれました。大変恥ずかしい話なのですが、バブル期を経験した貴重な体験談なので先生と共有したいと思います。私の祖母は スナック(今でいうキャバクラのようなものだそうです)のお手伝いさんをしていたそうです。そのスナックに来るお客さんはお金の使い方が豪快だったそうで す。また、バブル期で絵よく聞くような、土地の売り買いの話なども実際にあったそうです。
→ 「HET」さんの感想:今回、バブルについてのいろいろな情報を見て聞いて、私もバブルを経験したいと思いました。ですが、バブルのような景気はもう二度 と来ないそうです。よく調べてみたのですが、バブルがもう二度と来ないのはなぜでしょうか?間違っていたら恥ずかしいのですが、バブルが来たのは私の推測 として、戦後の特需景気のおかげが第一の要因だと思います。それいがにも好景気になる条件が重なったと思います。そうなると、二度と来ないのも納得できま すが、これがあっているかわかりません。
<公務員>
・1990年=平成2年当時は24歳で公務員(教員)をしていた父。山形市在住(2021年度後期・日本外交論2「TKY」さん)。
 円高不況の思い出としては「不況」と言うほど経済が悪かった感じではなかったと言っていた。

 バブル経済の思い出としては、大手のスーパーに就職した父の友人が最初のボーナスだけで100万を貰ったらしい。バブルの終わりの頃、父の学校で退職間際の先生がボーナスとして手取りで現金100万円貰っていたのを見たらしい(封筒に入っていた)。民間で給料が良くなった後に、公務員の給料が良くなったらしい。父が大学生の頃東京に行った際には今以上に賑わっていたとも言っていた。

 →聞き取りをしての感想:
 円高不況がそれほど不況という感じはしなかったというのは少し意外だった。これについては父の意見が合っているかを後に調べる。父の友人が初めてのボーナスで100万円貰ったというのも驚きであったが教師がボーナスだけで現金100万円を貰うというのが今の教員の給料からは想像もできなくてとても驚いた。民間での給料アップをみて公務員も給料アップになったということを聞いて行政は民間の給料の様子をよく見ているなあと思った。バブル経済について自分は聞き取りをしても実感がわかない話だった。授業中に見た高度経済成長のビデオでエコノミストの下村治が「マネーゲームに意味は無い」のようなことを言って、バブルについて苦言を呈していたのを思い出した。松本先生のバブル思い出も聞いてみたいです。


<ジュリアナ東京>

・1990年に東京で22歳の大学生だった父と、山形で働いていた母/2020年度後期・日本外交史「TWM」さん
  バブル当時の状況について、結論から先に述べると父も母も「バブルの恩恵」はそんなに受けなかった、ということだった。父は当時東京に住んでいたとはいえ まだ学生で、母はその頃仕事を始めたばかりで、(今思えば「ボーナスが年3回」というのがもしかしたらその恩恵なのかもと思うとのことだった)「バブルの 真っ只中」という実感は沸かなかったそうだ。みんながみんな必ずしもバブルの恩恵を受けていたわけではないという点がとても意外だった。
  恩恵はさほど感じなかったらしい両親だが、その当時を振り返っていろいろな話をしてくれた。当時はいくら値段が高くても「これから景気が良くなるから」と いう理由でモノがどんどん売れたり、また、「花金(花の金曜日)」という、金曜日に飲みに行ったり遊びに行ったりするという風潮のある時代だったのだとい う。また、そのようなことはよく分からなくとも、母は「ワンレン」や「ソバージュ」など、当時流行していた髪型を真似していたらしい。
  そして、東京にいた父は運送業のバイト帰りに毎度ごちそうをおごってもらったり、ときには就職する気もないのに銀行での就職説明会に参加し、どの会社に就 職するとどんな特典がついてくるのかだけ聞いて帰ってきたりとか、そこでもらえるいろいろなモノをもらってきたという話を紹介してくれた。
 なかでも一番衝撃的だったのが「人生で一回だけ、友達とジュリアナ東京に行ったことがある」という話で、連日満員だった「ジュリアナ東京」の店員に、父の友達が「こいつ山形から来たんだから入れてくれよ!」といって無理矢理中に入れてもらったことがあるのだそうだ。
 バブルの恩恵については、若い世代はあまり感じなかったのかもしれないなと思うと同時に、父も母も、それなりに「バブル」の時代を楽しんでいたんだなと感じた。
 今回は父と母にのみ聴き取りを行ったが、今度はさらに上の世代のバブルを知る人物に話を聞いてみたいと感じた。年齢や職種、役職の違いなどによって「バブルの恩恵」も変わってくるのかもしれないと感じた。
<海外旅行>
 
・1990年当時18歳で学生生活を送っていた父母/2020年度後期・日本外交史「HFY」さん。
・父は山形出身で仙台で大学生をしていた。
 アメリカ旅行をしたときに1ドル85円ぐらいだったので、安く旅行できた。ほとんどの人が給料は右肩上がりだと思っていた時代。
 しかし親が家を建てたが景気が悪くなり給料がさがり返済するのに困っていた。
・母も山形出身で東京で短大生をしていた。
 東京での学生生活はバイト代も当時の時給1000円以上。バイト代をためて海外旅行、ブランド品の購入など。
 時間も金銭的にも自由なバブルの余韻が残る新宿で学生生活を堪能した。
 山形にUターンで就職。山形新幹線が開通し、新しい山形駅のホテル駅ビルの開業スタッフとして国鉄で働いてきた技術や電気分野の社員さんが全く畑違いのサービス業に出向してきた、上司と不夜城のような毎日を送る。
 駅ビル開発計画当初、ホテルにはスカイラウンジがありもっと高層棟での建設計画だったが、どんどん計画が縮小され開業を迎えた。
→ 「HFY」さんの感想:親からまずこのような話を聞いたことがなく新鮮だった。親が言うにはあまり不況を感じていなかったそうだ。自分も同じ年なので同じ 状況になったら、どうしていたのか気になりました。多分コロナがない時代で、自分なら親と同じく海外旅行に行っていたと思います。大学生にはあまり影響が ないようで、親世代が影響を受けたという事実を知れてよかったです。
<バブル経済期の就活>
・当時22歳で当時福島大学の三年生だった父と、四年生だった母(2021年度後期・日本外交論2「AMY」さん)
・母)バブル経済当時東京に行くとディスコ、というものがあって無料で入れた(女性だから客寄せの目的だったかも)。

 就活の時、売り手市場だったため、企業側からの待遇がよかったらしく、地方の大学でも東京までの往復交通費が出たり、お土産を持たされたり、食事を出してもらったりした(母は就活せず)。教育学部だったが公務員に就職する人が少なく、一般就職の方が人気だった。

・父)特に変わったことはなし。バイト先の街の個人でやっている電気屋さんがものすごく儲かっていた。電気屋の二階にカラオケボックスを作るなど、よくわからない商売をやっていた。
 

→聞き取りをしての感想:就活生の待遇の違いがとてもバブル景気を表しているな、と思いました。企業はとにかく人材を欲していたのだと思いますが、だれでもそうだったのか、優秀そうな人材だけそのような待遇だったのか気になります。バブルが崩壊して企業が不利益を被ったのは、不況だけが原因ではなく、人材を多く取りすぎたことや、父が目撃した電気屋さんのように、何でもかんでも取り入れて商売をしようとしたことなどの経営上のミスが影響した部分も大きかったのかな、と感じました。
<バブル破裂後の就活>
・バブル経済破裂当時に大学二年生だった母/2020年度後期・日本外交史「SKH」さん
 母が大学に入学したころは、4年生はたやすく内定をもらっていましたが、母が就職活動をする時にはバブルがはじけてしまっていたため、就職氷河期に入っており、かなり苦戦したと言っていました。
 ま た母の友達の父はバブル経済時に海外に進出しましたが、バブル経済崩壊によって自分の企業が倒産してしまったようです。私の母の父も会社を2つ持っていま したが、バブル経済崩壊によってそのうちの1つを畳んだそうです。このようにバブル経済崩壊後に会社を畳まなければならなくなる人は大勢いたのだと思いま す。
→「SKH」さんの感想:新型コロナウイルス感染症により、昨年の4年生は 就職率も高かったのですが、今年は低くなってしまったと聞きました。新型コロナウイルス感染症の影響を受けた就職率と、バブル経済崩壊後の就職率はどちら の方が低いのか気になり調べたところ、新型コロナウイルス感染症の影響を受けた就職内定率は69.8%で、バブル経済崩壊後の就職率は55.8%(平成 12年)でした。これを見るとバブル経済崩壊後の就職率の方が低く、この理由として、バブル経済時は企業も余力があったので、いつもより多くの人を就職さ せてしまい、その人数も影響して、バブル経済崩壊後で少ない求人数をさらに少なくした。新型コロナウイルス感染症の影響を受けた就職ではその前の年の就職 率がバブル経済時ほどいいわけでは無かったため、バブル経済崩壊後のような就職率がいい時代の跳ね返りを受けなかったという理由が挙げられると思います。
  新型コロナウイルス感染症によっても倒産する企業はたくさんあり、今までの調査によれば新型コロナウイルス感染症による経済の落ち込みより、バブル経済崩 壊後の落ち込みの方が大きいようなので、バブル経済崩壊後は今よりも多くの企業が倒産したのではないかと考えられます。
・1990年当時に18歳で山形に居た母親/2020年度後期・日本外交史「ESR」さん
 円高とかは一切気にしなかった。バブルに関しては学生だったので特に変化を感じなかった。ニュースも特に見ていないので分からない。
 土曜には友達とご飯に行っていた(ケンタ、ミスド、特にお好み焼き)。 補習があったからその前にセーブオン(もう無いコンビニ)に行ってヨーグルト食べていた。
 就職も特に困ったりはしなかった。ただ就職のために見学に行った一社に夏休みに行ったら遅いと言われた。
 母が就活している時期は就職氷河期に該当していますが、就職に関しても特に問題はなく普通に見学したりして就職できたそうです。羽振りが良くなったりしてなくても普通に職につけているので良くも悪くもバブルの影響を受けなかったようです。
→ 「ESR」さんの感想:高校生が毎週ご飯を食べにいくのはなかなかすごいと思います。友達と一緒に行っていたとのことでみんなそれなりの羽振りの良さだっ たことがうかがえます。現在でも金遣いの荒い高校生でしたらあり得るかもしれませんが、大体の人はなかなか厳しいと思います。今と比べて昭和の頃は学生が 持てる金額も少なかったと思います。補修前に買い食いしているのはバブルなど関係ないと思いますが今と変わらないことがあり少し嬉しく思います。就職氷河 期でも就職できたようなので学生からすればバブルはとにかく楽しい時代だったのかなと思います。
1995年に大学四年生で就活をした母/2020年度後期・日本外交史「IUM」さん
 現在48歳で臨床検査技師として働いている私の母にバブル当時やその後についてのインタビューを行いました。
  平成2年(1990年)当時は高校2年生の18歳で当時は東京都八王子市に住んでいました。当時高校生であった母は自分自身に大きな影響があったわけでは ありませんでしたが、周りの社会人が挙ってタクシーを移動手段として使用していたり、学生がブランド品を身に着けていたりするのが当たり前であったと話し ていました。また、特に東京都内の土地代が急激にあがっていたそうです。
 母自身 が大きな影響を受けたのはバブル崩壊直後の1995年のことであったそうです。その当時は大学4年生でちょうど就職活動の時期でした。以前は「臨床検査技 師は国家資格が必要な職業でもあるため就職には困ることはない」といつも大学教授が言っていたそうですが、その当時は就職氷河期と呼ばれる時期で、その職 を志している人の多い学部でさえ卒業時に内定が決まっていた学生は半分にも満たなかったそうです。
 また、母の父、つまり私の祖父はタクシー運転手をしていましたがそのタクシー事業所がタクシー利用者の減少に影響を受けた結果閉鎖され、本社に異動になったことがあったと聞きました。
→インタビューを行っての「IUM」さんの感想:土 地代に関して、東京は経済の中心であるので他の県に比べて比較的価格高騰幅が大きかったのだろうと思いました。バブル崩壊後の就職氷河期に関しては現在新 型コロナウイルスの影響で多くの業界が打撃を受けていることを考えると似たような状況になりつつあると感じました。また、この状況を考慮して、自分自身が 就職活動の時期に同じような状況下に置かれたとき、どのように対処するのかあらかじめ考えておく必要があると思いました。




《以上です》