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「所得倍増計画」

文責:松本邦彦
(2008年02月13日に増築/最終更新時:2022年03月23日(水)
御意見・御感想は→松本宛メールにて。授業の受講生はWebClassメッセージやWebClass掲示板でも可。
聞き取りに協力してくださった方々に松本からも御礼申し上げます。


〈目次〉
「三種の神器」以前><成長を支えた人々><中卒で働いて><山形のデパート> <給料アップ> <東京五輪> <実感なし><農家にとっては><農家と主婦から><「三種の神器」たち><洗濯機の力> <テレビの力><モータリゼーション
〈聞き取り者一覧〉(敬称略/アルファベットの方は名前のイニシャルから松本が命名したので、読み方が
      違うかも…)
2021年度
HSS」「ISY」「TKY
2020年度
AEM」「IKT」「ISM」「KUK」「OAA」「TKS」「TRY」「TWM」「YGJ」「YKT」「えだ」「三角莇
2018年度
さくらんぼ
2016年度
ぎょうざ」「きのこ」「なっとう」「もち米
2015年度
のっぺら坊主」「フラットウォーター
2014年度
いちご」「梨好き
2013年度
キング・コング」「Tommy
2012年度
波乗りうさぎ
2011年度
あんこ。」「ジェシー」「みずたま
2010年度
いちごけーき」「ニュートン」「ネコ」「ぷにたま」「まめじ
2008年度
日本一の蹴られ役
2007年度
ペナ」「みずいろ


<「三種の神器」以前>
・1964年当時に24歳で仙台市に住んでいた祖母/2020年度後期・日本政治論「YKT」さん
 
  祖母が住んでいた地域はまだ田舎町で、「三種の神器」が普及したのは東京などの都会よりもかなり遅かったようだ。冷蔵庫は今と違って最初は氷式冷蔵庫と いって、直接氷をいれてそれで冷やすというものが主流だった。また、洗濯機も手に入れられるまでは川での水洗いや、井戸から汲んできた水で手洗いをするこ とが当たり前だったという。赤ん坊を育てている家庭ではおむつなども手洗いだったとか。

 テレビについても、家に来る前は他の人の家に見に行ったり、紙芝居や近くの映画館へ映画を見に行ったりしていたという。ちなみに当時は美空ひばりの人気が爆発していた頃らしい。

 新幹線も開通した時代だが、仙台にはまだ東北新幹線は通っておらず、東京に出かける際には寝台列車で長い時間をかけて行ったという。どのくらいかかったのかと聞くと、大体7〜8時間もかかったという。
 

→ 「YKT」さんの感想:今とは生活の様式が大きく違っているということを改めて感じた。当時の仙台市は当然今ほどの都会ではないし、冷蔵庫・洗濯機・テレ ビの3つが普及するまでには東京よりも時間がかかったのだろうなと思った。普及される前は当然今と比べて不便だったと伝わってきたが、三種の神器はその不 便を解消できたのだからまさに神器とよばれるほど革新的な進歩だったのだなと納得した。

 祖母の話の中で驚いたのは、昔は各地を回って紙芝居をす る詩人のような人がいたということである。祖母が住んでいた地域近辺の特色なのかそれとも他県にも同じような人々がいたのかは分からないが、今ではもう紙 芝居でお金をいただく人はあまり見ないので、そのような活動をしていた人がいたことに驚いた。昔の生活の様子は今回のように実際の経験談を聞かない限りは 教科書等の書籍や文献でしか知ることができないので、現在の生活との変化や変わらない部分について、非常に興味を持った。


1970年に30代だった祖母(山形県新庄市在住、主婦)/2015年度後期・日本政治論「のっぺら坊主」さん

・三種の神器は「白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫」の順番で家庭に入れたようです。「白黒テレビ」を最初に導入したのは「子供たちに見せてあげたかった」という思いが強かったからだとか。

・“集団就職”については、中学校の生徒の3分の2以上は就職して、高校進学は郡部だと2、3人だったようです。

・“出稼ぎ”については、自分の身辺では知らない。農家の方が多いのでは? 祖母はサラリーマンの家庭だった。

・冷蔵庫が無い時代のお買い物や献立は、その日その日で食べるものを買いに行った。食べきる分だけ購入。

・日常で使っているロープや袋はどうしていたのかというと、藁を編んだ縄を使っていた。袋は無く、新聞で包んでいた。トイレットペーパーも新聞紙だった。

→「のっぺら坊主」さんの感想:質問してみて、やっぱりその時代に生きていた人なのだなという印象を受けました。三種の 神器の最初の購入がテレビだったことには驚くとともに、親心を感じました。また、新聞紙も重要な生活用品の一つだったのだなと分かりました。祖母は喜んで 答えてくれました。
・2013年に祖父76歳、祖母72歳に聞いて/2013年度前期「キング・コング」さん
・テレビが来る前は:ラジオや新聞で情報を得ていた。新聞は一箇所に置いておいて、子どもが学校の帰りに取って配っていた。

・冷蔵庫が来る前は:その日に使う物を買う。または、干物などにして、保存の利くようにしていた。野菜などを冷やすのに、川や井戸の水を利用していた。

・洗濯機が来る前は:手こぎ井戸から水を汲んで、洗濯板とタライを使って洗っていた。また、その洗った洗濯物は近くの川でゆすいでいた。

・2013年に70歳祖父、69歳祖母に聞いて/2013年度前期「Tommy」さん
・テレビは編み物の先生の自宅にいって見せてもらっていた。

・洗濯は桶と洗濯板を使っていた。三人姉妹の長女である祖母は、「家族の分を洗濯していたので大変だった。今は洗濯機が使えるから、洗濯物の量は増えたけど楽に洗濯できる」と言っていました。

1964年当時には14歳の中学生で山形県中山町にいた祖母/2020年度後期・政治学「三角莇」さん
〈集団就職〉
当時はもう集団就職は無かった。しかし、祖母と五つ離れている姉の時はあった。長崎駅から山形駅まで一緒に行ったそうだ。
〈東京オリンピック〉
 東洋の魔女をテレビ(白黒)で見た。
〈三種の神器〉
 冷蔵庫が無かったため毎日買い物をしなければいけなかったし、刺身も肉もそんなに食べられなかった。その当時の祖母にとっての御馳走は鯨の缶詰やソーセージ、桃の缶詰だった。毎日の食事は白いご飯と漬物や干した野菜の煮物、天ぷらだった。祖母のまわりの家庭環境はどこも一緒だったため、特にひもじい思いはしていなかった。
 洗濯機はまだ無かったため、洗濯板でやっていた。石鹸は固形であった。冬は水が冷たかったのでお湯でしていた。
→「三角莇」さんの感想:思ったよりも過酷な生活をしていると思った。衣食住には困っていなかったと言っていたが、質が明らかに今よりも悪いし、スマホやネット環境が無いことがすごく苦痛だと感じる。こんななかで育ってきたひとはすごいなと尊敬する。祖母が幼かった頃と現代とを比較すると、日本がどれだけ発展してきたのかがすごく分かった。
<成長を支えた人々>
 
・酒田の祖父母について/2020年度後期・日本政治論「KUK」さん
<1964年当時は22歳だった母方の祖母>
 当時は、和裁教室に通っており、住んでいる場所も同じで、農家の手伝いをしていた。
 集団就職については、当時、周辺の人の半数以上が集団就職に行っており、農家を継ぐという人もいて、自身もそうであった。就職先は、紡績工場、自動車部品工場などであった。
  東京五輪の思い出は、姉のお産の手伝いに東京に行っている際、オリンピックは見に行かなかったが、姉の旦那がハイヤーの運転手をしており、オリンピックの 記念硬貨100円一枚をもらった。(今ではどこにいったかわからない。) オリンピック自体は、一家揃って白黒テレビで見ていた。
 三種の神器に ついては、白黒テレビ→電気洗濯機→電気冷蔵庫の順に買っており、白黒テレビは、部落の中で二番目に買った。当時部落内で、テレビを所有している家庭は、 三家庭ぐらいであったため、近所の人も紅白歌合戦やプロレス(特に力道山)などの時に家に見に来ることがあった。
 購入の理由は、部落に電気屋の売り込みが来て、「あの家でも買ったから」など言われ、注目の的になることもあり、揃えたくなったから。一方で、電気洗濯機や電気冷蔵庫については、便利ではあったものの、どうしても欲しかったわけではなかった。
<1964年当時27歳だった父方の祖父と、21歳だった父方の祖母>
 当時は、祖父も祖母も住んでいる場所や職業は同じであった。(結婚後はともに酒田市の新堀に暮らすようになり、祖母は専業主婦をしていた。)
 集団就職については、就職しに行くのとはまた異なるかもしれないが、ブラジルに集団で行く人もいた。
 また、交通手段が比較的少なく、子どもも多かった時代であり、時々旅行に行くときは、ほとんどの場合、満員に近い状態で、板をもって通路に寝る人もいた。
 東京五輪は、祖父は新聞で、祖母はテレビで知っていたが、忙しい上に、特別興味もなかったので、祖父はテレビでは見ていなかった。
 三種の神器については、白黒テレビ→電気洗濯機→電気冷蔵庫の順で購入した。白黒テレビを購入した理由は、周りにアピールできるからで、祖母はテレビでプロレスを見ていた。
→ 聞き取りを終えての「KUK」さんの感想:まず、集団就職について、年代的にその主体であったわけではなかったが、周りの人の大半は行っていたようで、祖 父のような地元で働く人は少なかったのだろうなと調査の中で感じられた。就職先は、たいてい工場であることは予想通りであったが、海外にいった人もいたの だなと面白く感じられた。

 東京五輪については、専業主婦だった祖母は、テレビで見ており、働いていた祖父は新聞でしか見ていなかったそうで、当時働いていた男性には、忙しくて見ていられないという人もいたのだろうか(少数だとは思うが)と感じた。
 
「三種の神器」については、母方の祖母も父方の祖父母も同じ順番で購入しており、電気冷蔵庫は、やはりその重要性が地方では感じられないという部分が大き かったらしいが、電気洗濯機については、思っていたより便利になったなどの強い印象はなかったのだなと過去の受講生の聞き取り内容を既に読んでいたのでな おさら感じた。

 そして、白黒テレビについては、母方の祖母は、買ってから紅白歌合戦やプロレスなど様々なものを見ていたと語っていたが、父方の 祖父母は、子育てや仕事で忙しく、祖母がプロレスや東京五輪を見ていたとはいえ、あまり熱心には見ていなかったようで、それじゃあ「三種の神器」買っても 買わなくてもそこまで変わってなかったのではと思ってしまった。一方で、汽車の板の話は、現在では考えられないような話で楽しみながら聞いていた。

  
・東京五輪当時には働いていた祖父母について/2020年度後期・日本政治論「TKS」さん
 
 
・1964年東京五輪当時の住所地・職業など
 父方の祖父:24歳で、名古屋の木工場(木材を加工して物を作る工場・家具屋)で働いていた。

 父方の祖母:22歳で、長野のJAで事務員をしていた。

 母方の祖父:21歳で、名古屋で働いていた。

 
 ・集団就職について
 父方の祖父 「兵隊に行かされるよりましだったけど、似たようなもん。父が(私からみてひいじいちゃん)先生でお金があったから進学も出来た。名古屋に就職をしたが、長男だから帰ってこいとのことで地元に帰ったが、高校を出ていたから役場に勤めることができた」

  父方の祖母 「中学卒業で半分くらいが就職していた。岐阜の紡績工場に皆行った。あとの半分くらいは高校に進学できたけどみんなが進学できたわけではなかった。家は貧乏だったけど上の兄たちが親を説得してくれたおかげで高校に行けた」

  母方の祖父 「1955年、16歳の時に福島から名古屋に集団就職で来た。郡山まで4時間かけてひとりでおむすびを2つぶら下げて行った。職業案内所では 同じ東北の人たちはみな東京のブロックに行き、自分は東京が怖かったし、先に名古屋に2番目の兄がいたから選んだけど、同世代が誰もいなかった。」   「名古屋ではひとりだったから成人式が寂しかった」   「何もわからないままできて、名古屋で初めて電車を見てびっく りした」    「自分は三男で四番目だったから田舎(実家)にいられなかった」

 
  ・三種の神器
  父方の祖父 「就職で家を出たころにきたと思うから1960年ころだったと思う。子供はテレビにくぎ付けで外に遊ばなくなった」

   父方の祖母 「我が家には1954年ごろきた。最初に洗濯機、次にテレビ、最後に冷蔵庫がきた。生活は劇的に変わった。洗濯は手洗いじゃなくて楽になったし、手で絞るよりも乾くのも早くなった」

→「TKS」さんの聞き取りをしてみての感想
   どちらも田舎ではあったもののやはり様子が違うことが多かった。父方の祖父母は集団就職はせず、高校まで進学ができたようだった。父方の祖父は当時は“おぼっちゃん”という感じだったらしく、それなりに恵まれた環境にあったのだと思う。

 東北出身の母方の祖父からは小さいころから切ない話、苦労の話を聞かされることが多かったので今回の聞き取りでは、当時の東北地方の貧しさや集団就職といっ た背景を知って、そして聞き取る自分自身も当時の祖父と同じくらいの年齢になってから聞く話だったので涙が出そうになった…。苦労の仕方や内容に優劣もな にもないけれど、母方の祖父の苦労は計り知れないものだった。長男だからと呼び戻された父方の祖父と長男以外はいられないと出てきた母方の祖父とでは対照 的だった。しかもそれがすごく自然な流れであったことにも少し驚いた。

  三種の神器は聞いていて、洗濯機が如何に革新的なものであったかが伝わってきた。洗濯がほぼ確実に家の女性の仕事であったころ、この恩恵を一番受けることができたのは祖母だったのだな、洗濯機が導入されて良かったと思った。


1960年当時10歳 仙台市在住/私の母/2010年度後期日本政治論「まめじ」さん

ベビーブームの時代で、1クラスは60人近い。教室は人で一杯だった。今のように高校が多くなかったので、公立高校に入らなければと、どこも受験に過熱していた。

 そのようななかで、どこの中学校でも、1クラスは就職クラスがあった。自分は受験勉強が大変だったので、あの人たちは勉強しなくて良いなと子ども 心に思っていた。今思えば、まだ15、16で大都会に出て行って,中には父親に代わって家族を養わなければならない人もいたのだろうし、色々と苦労も多 かっただろうと思う。

 そのクラスの先生がよく生活指導をしていたのも、当時は勉強しないから注意されているのだと思っていたが、今思うと、親心というか、先生も心配だったのだろうなと感じる。

→「まめじ」さんの感想〕今では中学校を出てすぐ働くというのはほとんどないと思うが、昔は色々と違っていたんだなと 思った。夢と希望を持って東京に出てきた彼らの、期待に満ちた、でも少し不安そうな顔を思うと、少し切ない感じがした。自分は大学を出てもちゃんと働ける かどうか不安なのに、中学校を卒業したばかりだったら、もっと不安だったろうなと思う。
<中卒で働いて>
・北海道(札幌?)在住の祖父/2020年度後期・日本外交史「IKT」さん
 正月に帰省した際、祖父に戦後当時の状況を聞いてきました。戦後直後、特にGHQ占領の講義を聞いているうちに、その当時、人々はどのような生活をしていたのか、そしてどのように考えを持ったのか気になり、祖父に聞いてみました。

  祖父は山形県に生まれ、真室川で育ったそうです。余談ですが、祖母は山形県の新庄で育ち、二人は結婚し、各地を転々とした後、北海道に落ち着いたというの です。そしてその孫が山形に進学する、何か運命的なものを感じずにはいられませんでした。祖父の少年から青年時代にかけてのエピソードを聞いてきたので、 それについて記述したいと思います。
 
 祖父は高校には通わず、中学校を卒業したと同時に社会に出たと言っていました。それについて「どうして高校 にいかなかったの」と聞くと「そんなお金、普通の家庭は到底持っていなかった」と答えました。戦後当時はまさに何もなく、裕福な家しか高校には通えなかっ たといいます。それについては頭ではわかっていましたが、やはり実際に当事者から話を聞くと、改めて実感させられました。なるほど、進学についてはやはり 思うようにいかなかった、そう思っていましたが、祖父は、それについてはあまり深く考えていなかったそうで、それよりも次のようなことを言っていました。 「とにかく、何もない時代だった。食べ物も今のように簡単にはありつけず、自然に入って野生動物をつかまえてくることだってざらだった。遊びにしてもきょ うだいと野山を駆け回った」と。やはり先人の言葉には重みがありました。

 祖父は、私に小さい頃から食べ物をたくさん食べさせてくれましたが、そ れはきっとこの時代を経験したからなのでしょう。何もない時代から数十年の時を超えて、物に溢れる時代になった。今に生まれ、今を生きる人は、それを当た り前だとおもっているが、戦後に生まれ今を生きる人にとって、これは当たり前ではなく幸せ。食べ物だってこんなに食べられるのは幸せなこと。だからこそ、 私には小さい頃からたくさん食べ物を与えてくれたのです。「いっぱい食べて大きくなれ、残したらもう一生お前に飯はやらん」冗談交じりの笑みで小さい頃か ら言われてきた言葉ですが、今思えば重みやありがたみを感じます。

 祖父は、苦しかったけど、不幸とは思わなかったと当時を振り返っています。何 もない時代、だからこそ何かがある時代だった。人のありがたみ、友だちや家族、隣人との関係は今より深く、まさに人情深い関係であったと言います。今の人 たちは人のありがたみについて理解していない。自分一人では生きていけない。先に生きる人の知恵は一生生き続ける。年上を尊敬し、学ぶことが大切だ。「あ んちゃんやおんちゃんから色んなことを教えてもらった。それを今度は自分が年下に伝える」そう言っていました。

 祖父には数々のことを教わりまし たが、やはり一番印象に残っているのは、当たり前を幸せと感じること、食べ物は大切に扱うこと、そして年上や他者には尊敬を忘れず、つながりを大切にする ことでした。今を生きる私としては、これら三つをしっかりと受け継いでいこうと思いました。祖父の話は「何もない時代だったからこそ、何かがある時代だっ た」という点において、深く、そして言葉が悪いですが、面白いと思いました。どのように話すのは、間違いなく当時の生活に何か価値を見出しているからだと 私は思います。そして、なぜ今を生きる人たちは当たり前を幸せだと気づかず、例えば食べ物を残すことが日常茶飯事になってしまったのか、時代の背景を追う 上で疑問に感じました。

・1964年当時19歳の祖母と、1970年生まれの母(2021年度後期・日本政治論「HSS」さん
 祖母によると、一般家庭にとって「三種の神器」は喉から手が出るほどほしい憧れのものであった。しかし、祖母の家はなかなか独特で、教科書で習うような高度経済成長期の様子ではなく面白いと思ったので、書いていきたい。

 祖母の家では曾祖母が1人で理容師を営んでいて、その家業を継ぐために祖母は中卒で理容師学校に入学し、19歳当時は他の理容師に弟子入りしていた。祖母の家は、床屋でかなり儲けていたという(今ではかなり山間部かつ田舎で寂れており全く想像できないが、朝から晩までひっきりなしに床屋にはお客が来て、忙しかったようだ。これも高度経済成長期の余波だろうか)。その当時かなり珍しかったという電気炊飯器を既に使っていたそうだ。そのため、弟子入りしていた家で、初めて(!?) かまどでご飯を炊くことになった。祖母は、ご飯の炊き方が全く分からず、お釜のご飯を下から上まで真っ黒に焦がしてしまった。祖母は、「私の家は特殊だったからね…」と昔に思いをはせていた。

 祖母に聞き取りをしてみて、教科書で習うものが全てではないということが分かった。確かに祖母の家は特殊であったかもしれないが、そんな地方でもサービス業で大儲けできるほどの力が高度経済成長期にはあったんだなと思った。

 その床屋の盛況は母が中高生頃(1980年代)あたりまで続いていた。母によると、平日は一緒にご飯を食べたことはほとんどなかったそうだ。その盛況がずっと続いていたことにも驚くし、社会がいつの間にか変質・変化してしまったことも何だか怖いなと思った。

<給料アップ>
・1964年当時20歳 祖母の弟/山形市在住・警察官/2011年度後期・日本政治論「みずたま」さん〕
・集団就職
本人の話ではないが,就職する者は,集団で上野駅へ向かった。
汽車で向かうため,着く頃には顔がすすけるほどであったという。 (昭和35年よりも前の話)
・所得
その頃は,給料もすぐ上がった。1万円アップも普通だった。
・公害
 山形では駅前工場の臭いや,鉱山採掘による吉野川汚染があった。
→聞き取りしてみての「みずたま」さんの感想〕
  “あの頃は良かったなあ”と,当時を懐かしむように話してくれた。今を考えれば,高度成長期は夢のような時代であっただろう。バブル崩壊後の日本社会しか知らない私からは想像もつかないほどだ。

 将来,私自身が同じように時代を振り返ったとき今の社会をどうとらえ,何を思っているのだろうと思った。

<山形のデパート>
・1960年代に二十代で、山形市の「大沼」で働いていた祖父母/2020年度後期・日本外交史「TWM」さん
 祖父は1964年には24歳で、大沼の地下の映画館の技師をしていた。祖母は1964年には20歳で、高度経済成長の頃(1963年〜64年あたり)は祖父と同じく大沼デパートで食料品売り場や着物、紳士服売り場でアルバイト、のち正社員として働いていた。

 高度経済成長時代の思い出について、印象に残っている話が多くある。まず、その当時は給料も月給数千円単位、また物価も非常に安く、労働賃金を上げさせるための抗議が何度もなされたという話だ。

  そして、60年前の祖父が建てた家(今もそこに住んでいる)は、その年の4月には約200万円で買えたそうだが、その2か月後あたりから物価がどんどん上 昇し始め、200万円で買えた家が2〜3年後には2000万円出さないと買えなくなってしまっていたというエピソードを聞かされ、それには本当に驚かされ た。

 また、1964年東京オリンピックの年には祖母の家にカラーテレビがやってきて、初めてカラーの映像を見たときは本当に嬉しかった、感動し たと懐かしそうに話していた。今となっては当たり前のことのように思われるが、当時の人にとっては本当にものすごい驚きだったのだろうなと感じた。
 
 そして、祖父母は大沼デパートで働いていた・七日町が栄えていた頃の話も聞かせてくれて、特に休日のデパートは多くの人で賑わい、人が多すぎて歩けないほ どだったという話も印象的だった。既に記載したとおり祖父は映画館の技師として地下の映画館や当時屋上の脇にあった「大沼ホール」で働いていて、祖母は食 料品売り場や着物・紳士服売り場で働いていたが、窓のない店内で長時間働く祖母にとってお昼休憩の時間に屋上に上がり、日光を浴びることは何よりの癒し だったのだと話してくれた。

 他にも「丸久デパート」や「スーパーみつます」など、私の知らないデパートやスーパーの名前がいくつも出てきて、そ んなものがあったのかと驚かされ、そのような話を聞いた後でもう一度七日町の大通りを歩いてみると、栄えていた当時の面影はあまり感じられず、どことなく 寂しい気持ちになった。

〔※松本注:この「時代の記憶」の「バブル経済」ページに、バブル経済当時の山形のデパート「十字屋」で働いていた人の体験談聞き取りがあります。〕
<東京五輪>
・1960年当時は名古屋の大学一年生だった母方の祖父/2020年度後期・日本外交論「TRY」さん
 
 当時は地元である沖縄から離れて、通っている大学のある名古屋市で一人暮らしをしていたらしい。
   集団就職に関して、私の祖父は国家試験で資格を取得した後に仕事をしていたため、集団就職ではなかったらしい。しかし、高校の同級生の約半分くらいは集団就職をしていたらしい。その理由としては、沖縄に職が少なかったからだそうである。
   新幹線については、東京大阪間で新幹線が通っていたそうである。東京オリンピックにあわせてつくられていたことを覚えていた。お金がなく、高くて乗れなかったらしい。
   東京オリンピックの会場には、電車で向かったらしい。お金がなかったので、競技場の中には入らなかったが、外観だけ見てきたそうである。国旗がたくさん掲げられていたのが印象的だったらしい。
   三種の神器について、オリンピックをテレビで見ていた記憶があるそうだ。三種の神器はまだ自分で購入するには値段が高く、テレビや洗濯機、冷蔵庫は大家さんのものを共有して使わせてもらっていたそうである。
→ 聞き取りをしての「TRY」さんの感想: 今回の東京オリンピックでは、座席は抽選なので、前回の東京オリンピックとの違いを感じた。衝撃的だったのは,値段が高かったから入らなかったという理由 である。学生とはいえ、オリンピックを直接見るのに躊躇するような値段だったのだなと思った。現在の私たちは、よほど無理をしなければ、直接見ることがで きるだろうし、新幹線にさえ乗ることはできるので、当時の大学生との経済面での違いをとても感じた。
 「三種の神器」についても、テレビを共有することは聞いたことがあったが、冷蔵庫や洗濯機も共同で使っていたということで、いかに貴重なものであったかを知ることができた。


1964年当時8歳の小学生で宮城県白石市にいた 母/2011年度後期・日本政治論「ジェシー」さん〕。

 国道4号線を走る聖火ランナーの姿を、幼いながら、覚えている。
→「ジェシー」さんの感想〕
私自身が体験した日本の五輪は1998年の長野オリンピックであるが、テレビを通してしか見ておらず、実際に体験してはいない。長野オリンピックは日本で3度目であったし、初開催の東京オリンピックとでは、熱気が違ったのではないかと思う。

また、戦後の復興から、高度経済成長からのオリンピックという事で、国民の期待は非常に高かったと感じる。東北地方の田舎でも、聖火ランナーが見れたのは、すごいと思う。

1964年当時には米沢市で高校生だった祖父と小学生だった祖母/2020年度後期・政治学「えだ」さん
〈三種の神器について〉
白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫は所有していた。まわりの人は白黒テレビをあまり持っていなくて、自分の家に見に来ていた。東京オリンピックがあるからと言って勝った人もいた。
〈新幹線〉
高校の修学旅行で初めて乗った。今よりも身近なものではなく、修学旅行のような行事でしか乗らないものだった。
〈東京五輪〉
 隣近所の人が家に集まり、夢中で体操やバレーボールを見た。世界の人の頑張りを見て感心した。みんながオリンピックを放送しているテレビに夢中になり、学校でも近所の話でもオリンピックの話題になり、盛り上がっていた。外国の体操選手がとても人気だった。
 高校生だったため、世紀の祭典だから家に早く帰って開会式をみんなで見なさいと学校から指示があり、早く帰ってきた。日紡貝塚の鬼の大松監督により青春も恋愛もオリンピックで金メダルを取るために練習をし、金メダルを取っていたことが印象的だった。陸上競技で君原選手や外国人の選手の活躍を見て圧倒された。
〈生活環境〉
国道13号線が拡張されて、自動車やバイクの交通量が格段に増加した。
その当時は、15歳で軽四輪360ccの免許を取得でき、18歳で普通免許を取得できた。
 
→「えだ」さんの感想:今まで日本史の授業を通してしか知らなかったことが、祖父母に聞いたことでとても身近に感じられた。私が知らなかった事実がたくさん聞けたため、とても有意義で面白かった。時代背景を学びながら、実際の生活の様子や生活環境、時代の移り変わりをとても深く知ることができた。自分の地元はオリンピックのホームタウンになっているので、その当時はなっていたのかと疑問に思った。
〔※松本注:「えだ」さんの地元が米沢市だとすると、同市は香港フェンシング協会のホストタウンになっている由。※参照:米沢市役所ウェブサイト>ホストタウンボランティアの登録者募集について https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/4050.html 。〕
<実感なし>
当時24歳くらい 祖母/当時は宮城県松島町在住/2007年度後期・日本政治論「みずいろ」さん
 「六〇年安保」についてと同様、そんなこともあったかなというくらいの答えしか返ってきませんでした。
→「みずいろ」さんの感想:「三種の神器」はだいぶ有名で、私も前から知っていたが、思ったほどの答えが得られず、また残念でした。田舎ではそれほど広まらなかったのでしょうか。
<農家にとっては>
祖母/2016年度後期「なっとう」さん
 時代の流れと、面白そうという興味本位でまず白黒テレビを買い、次に洗濯が楽になりそうだからと洗濯機を買った。農家をしていたこともあって、一度にいっぱい買って冷蔵庫に入れる必要がなかったので、冷蔵庫は最後に買った。
当時28歳 祖父/当時は山形市在住 専業農家/2007年度後期・日本政治論「ペナ」さん
 所得倍増計画について当時専業農家をしていた祖父に話を聞いた。まずこの所得倍増計画によって祖父は、自分たちのような農家を取り巻く環境が確実に悪くなると直感的に思ったとのことだった。

 その主な要因として祖父があげたのはまず「貧乏人は麦を食え」という池田勇人の言葉である。この言葉を聞いたときには自分たちのような田舎の農家 は収入もあまり多くないようなところは政策の名のもとにつぶされてしまうのではないかと思ったという。また所得倍増計画の農業の近代化という言葉も疑問に 思ったという。近代化といってもそれにかかる費用は結局は自分たちで何とかせねばならず、お金がない農家はいったいどうするのかという考えが離れなかった という。

 そのため祖父は兼業農家となる道を選んだ。職場には山形にある現在の中央卸売市場を選び、朝はそこで働き昼以降は家に戻り農家として働 くというものだった。このこと判断について祖父は間違っていなかったと断言していた。その理由として政策実行後に実際に収入が減ってしまい困っていた近所 の農家もいたということと、職場に出て働いたことにより今は生活に困らないだけの年金をもらえているから、とのことだった。

→「ペナ」さんの感想:今までは所得倍増計画と聞くと経済成長を促した政策という印象しかなかったが、実際には祖父のように計画そのものはあまリブラスとならなかった人たちもいることを知った。

 また、余談ではあるが祖父はもしあそこで専業農家の道を選んでいたら今どうなっているかはわからないとまでいっていた。あのときの判断は相当大きかったもののようであった。

 このように日本全体としてみるとプラスの政策のようだが、国民一人一人に注目していくとまた違ったものが見えてくるということもあるとい うことを知らされた。特に今回は自分の祖父ということで話の重みも教科書などで見るよりも重く感じられた。そういったことから今回の調査は自分の中でよい 経験になったと思う。

 
<農家と主婦から>
 
・当時29歳だった父方の祖母、福島県在住の農家/2020年度後期・日本政治論「YGJ」さん
 三種の神器について,洗濯機を最初に買ってすごく楽になったとのことだった.手洗いではとても大変で,手荒れの中での洗濯をせずにすむことになって嬉しかったそうだ.
 所得倍増計画については,農業の近代化という言葉を覚えており,信用できない政策といっていた.結局,少ない収入で暮らしている自分たちが痛い目を見るのだろうと思っていたそうだ.
・当時31歳だった母方の祖母、群馬県在住の主婦/2020年度後期・日本政治論「YGJ」さん
  三種の神器について,テレビを買って東京五輪を見ていた記憶がある.聖火ランナーの姿が印象的だったのと,柔道が人気で周りとすごく盛り上がっていた.

 所得倍増計画については,生活の質が向上しなかったのか,あまり覚えている様子はなかった.

→「YGJ」さんの感想: 当時の話を聞いても,実際に身近だった三種の神器以外で覚えていることは少なかった.数年前なら覚えていたこともあるのだろうかと考えると,中学高校時代にもっと話を聞いておけばよかったと少し後悔している。
<「三種の神器」たち>
当時20代後半 祖父/全国を回ったのち、蕎麦屋/2008年度後期日本政治論・「日本一の蹴られ役」さん
 「三種の神器」のうち、最初に買ったのは電気冷蔵庫だったという。「蕎麦屋やっていたからな」と祖父は語った。当時、氷で冷や すタイプの冷蔵庫なら持っていたそうだが、それでは駄目だと保健所から通達があったのだという。それから、白黒テレビを買ったのはだいぶ遅れてからだった という。私が生まれたときには白黒テレビは残っていなかったが。

 冷蔵庫が来る以前は、基本的に買い置きはせず、買った食料はその日のうちに食べるか、塩漬けや乾物にしていたのだという。食事は毎日、漬け物としょっぱい魚で、生の魚を食べるのは祝い事のある日だけだった。ちなみに、当時の筋子は今よりもずっと安かったらしい。

 祖父は時代の流れとは少しずれて生きてきたらしい。兄が兵役で満州へ行ったので実家の農業を継ぎ、終戦後に兄が生きて帰ってきたので居場 所が無くなり旅に出た。職を転々としながら全国を巡っていたので、集団就職とは無縁だったらしい。ちなみにその旅の途中でもついぞ新幹線には乗ることがな かったとか。

 洗濯機が来る以前は、やはりというか、盥や洗濯板で手洗いをしていたそうだ。さすがに水道は通っているだろうと思ったがそんなことはなく、川に近い家は川で、そうじゃない家は共同の水道を使って選択をしていたという。手回しの洗濯機も使ったことがあるらしい。

→「日本一の蹴られ役」さんの感想〕家族が揃う夕食時に、祖父はよく喋る。しかし口にするのは大抵「昔のこと」で、しか も同じ話を何度でもする。その癖には私もほとほと辟易しているのだが、このたび改めて話を聞いてみると、不思議なことにちゃんと面白かったのである。失礼 ながら、お年寄りは昔話をするのが仕事なんだなあと思ってしまった。「祖父母に昔のことを聞いてこい」というのは小学校の宿題にちょうど良いかもしれな い。
当時24歳の祖父と18歳の祖母/2018年度後期・日本政治論「さくらんぼ」さん
・祖父は1964年当時は28歳。祖母は23歳で、山形市・自営業(米菓製造業)

・聞き取り内容:

・集団就職について
 集団就職はもっと下の世代だったので関係なかった。今の団塊の世代が金の卵と言われ、中卒で上野に集団就職していた。
・新幹線について
  新幹線は日本で最初に東京−大阪間が開通。当初みんな怖がっていて乗らなかったが、祖父はお参りをちゃんとして開通してまもなく乗った。がたがた揺れたらしい。35、36年頃?
・東京五輪について
  見に行けなかったのでずっとテレビにかじりついて見ていた。日本の選手たちが礼儀正しく入場行進していたのが印象的。このころから高度経済成長が始まった。
・三種の神器
  新旧に分かれていたのは知らなかった。ほとんどの家にあった。一番助かったのは冷蔵庫。冷蔵庫がなかったときはハエをよける箱に網を張って残り物を保管し ていた。でも一日二日しか持たないのでいっぱいは作れなかった。次に洗濯機。手洗いはとても大変だった。子どもが一番喜んでいたのはもちろんテレビ。 NHKくらいしかなかったが。
・高度経済成長について
 昭和38年頃から給料、ボーナスはあがり、幼少期貧しい思いをした祖父母たちにとっては、欲しい物が何でも手に入った。朝鮮戦争(朝鮮動乱と祖父は呼んでいた)による特需景気によってあらゆる産業が大発展した。日本の力が強くなり、生活が豊かになった。

 好景気はバブル崩壊まで続いた。その頃は子育てをしていたので働いただけお金が入るこの時代はみんな裕福だった。

 34年頃、天皇と美智子妃殿下の結婚式を見るためにテレビを買い、近所の人がみんな見に来た。あとはガス、洗濯機もとても画期的だった。物価、株価、土地の値段もあがったが、景気はよかった。

・感想
 ずっと山形で暮らす祖父母にとっては、東京五輪や新幹線など、祖父母自身が見たり経験したりというような思い出は少なかったよ うである。だが、ほとんどの家庭が経済的に豊かで、便利な家電などがどんどん開発、利用されたこの時代の記憶を、とても楽しそうに話していた。めざましい 経済成長を遂げ、このときの日本は良い時代だったのだなと思った。

 これからの日本に未来があって、生活が豊かになる実感があるという経験を、私たちはしたことがないしこの先もしなさそうだと思うと少しうらやましいが、それだけ日本人みんながたくさん努力をしたのだと思う。

・当時15歳、祖母、山形県在住(2010年度後期・日本政治論「ぷにたま」さん)
 集団就職には行かなかったらしい。三種の神器はまだ無く、手に入れたのはだいぶ後だと言っていた。白黒テレビが最初に来たが、一番役に立ったのは洗濯機だったらしい。
 商店街が近くにあったことで、毎日買い物に行けたので、冷蔵庫は一番最後に来た。
→「ぷにたま」さんの感想〕高度経済成長期であれば、三種の神器のうち一つぐらいはすぐに手に入れられたんだろうと思っていたけ れども、実際はなかなか手に入れることはできなかったと分かった。祖母は田舎に住んでいたが、都会の方に住んでいたら三種の神器はもっと早くに手に入れて いたのかと疑問に思った。
・1964年当時は9歳(小学生)で仙台市に住んでいた小学生(私の高校時代の社会科の先生)(2021年度後期・日本政治論「ISY」さん)
 
 先生は集団就職の世代のほんの少し後の世代だが、中学校の時、同級生の中に二人だけ東京に就職する仲間がいて、見送った記憶がある。幼い先生にとって新幹線は夢の超特急で、初めて乗ったのは高校の修学旅行の時だった。

 1964年の東京オリンピックの記憶は比較的鮮烈で、親がオリンピックに合わせてカラーテレビを購入し、女子バレーボールや体操や柔道などを観戦した記憶がある。

 「オリンピックをきっかけにカラーテレビを購入した」という話はよく聞くが、実際にその当事者からお話を聞くのは初めてで、当時の様子についていろいろ教えてもらった。だが、先生のお宅はすでに「鉄腕アトム」鑑賞のために白黒テレビがあったため、そこまで感激したりはしなかったみたいだった。どちらかというと、初めてテレビで鉄腕アトムを見れたときの方が感動したそうだ。

 三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の思い出については、初めて冷蔵庫で氷を作った時の感動や洗濯機の手回しローラーによる脱水というか、水を搾り取る装置がおもしろくて、積極的に母親の手伝いをしたそうだ。

 さらに先生の同級生で東京に就職した方のお話に興味がわいたので、それについて詳しく聞かせてもらった。まず、一人は大手電機メーカーの工場で、私もよく朝ドラとかで見た典型的な集団就職だった。もう一人はなんと相撲部屋への弟子入りだったとのこと。お二人とも経済的事情による状況・就職だったため、あまり乗り気な感じで東京に夢を抱いて列車に乗ったとかではないように見えたらしく、集団就職が必ずしも本人の希望で行われたものではなかった現実が垣間見えた。特に、相撲部屋に弟子入りした方は、仕事内容が訓練だったり、師匠や兄弟子の身の回りの世話だったようなので、工場などに就職した人より精神的に厳しかったことが想像できた。

 三種の神器の思い出では、今では当たり前になった冷蔵庫での製氷機能や自動脱水が当時は革新的なものだったとのこと。個人的には先生のお話を聞いて、目新しいもの目当てで親の手伝いをするという家族の思い出は、高度経済成長期ならではだなと感じ、ほほえましくなった。

1964年当時は6才、父、青森県十和田市在住(2012年度後期・日本政治論「波乗りうさぎ」さん)
 集団就職に関しては、父の姉がそうした就職活動をしに愛知まで行ったそうです。また、東京五輪は、当時の記憶は覚えていないが、それが映画になったものを見たと言っていました。すごいことが始まったなという印象を受けたと言っていました。

 三種の神器は自宅にすべて揃っていて、父の母(つまり私の祖母)が、自分の子供のためにとすべてがんばって揃えたみたいです。ですので、父はテレビがあることになんの疑問ももたなかったそうです。

 とにかく、父の過ごしたその時代は「自由」だったと言っていました。

→「波乗りうさぎ」さんの感想:聞いてみてびっくりしたことは、三種の神器が揃えてあったということです。地元が青森県なので、全部揃っているのはなかなか珍しいのかなと思っていたのですが、揃っていたので正直驚きました。

 父に話を聞くと、6才の頃の記憶はなかなか覚えていないものがあると言っていました。ただ、全体的にのどかで過ごしやすかったという印象を受けました。

・1964年当時は4歳で鶴岡市にいた父/2020年度後期・日本政治論「AEM」さん
 集団就職や新幹線についてはほとんど記憶がないとのこと。

 三種の神器については、東京五輪が見たかったので、それに合わせてテレビを買いたかったが当時はとても高価だったので買えなかったらしい。その後父が小学校に入る頃の1967、8年頃に購入。

 洗濯機は父が物心ついたときにはあった(いつ購入したかは覚えていない)。

 父が小学校低学年の頃に、アパートから一戸建てに引っ越すと同時に冷蔵庫とテレビを購入。

→「AEM」さんの感想:冷蔵庫、テレビ、洗濯機が家にないということは私の時代ではありえなかったので、世代が一つ上がっただけでも生活様式は全く違うのだな、と思った。また、戦後から現代にかけて、それだけ急速に経済が発展してきたのだな、と改めて痛感した。

 同じように私が生まれ育った世代ではスマートフォンはまだ新しいもの、という認識があるが、最近生まれた子供にとっては生まれる前からスマートフォンがあり、当たり前にあるものと認識しているのかなと感じた。

<洗濯機の力>
祖母/2016年度後期・日本政治論「きのこ」さん
 電気洗濯機が手に入るまでは、家の前にある井戸で手洗いをしていた。洗濯板を使ってやっていて、冬は寒くて大変だったとのこと。
祖母/2016年度後期・日本政治論「もち米」さん
 夫婦共働きだったので、家事の時間短縮のために最初に電気洗濯機が入ったそうです。
・1964年当時は2歳だった母、山形県在住(2014年度後期・日本政治論「いちご」さん)
 母は昭和37年生まれの53才であり、生まれも育ちも山形県である。

・物心ついた時には白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫はあった。電気洗濯機は、今のような全自動(脱水、乾燥までやってくれるもの)ではなく、ただ洗濯だけやってくれるもの。脱水は、自分たちの手で回して水を飛ばす機械(あまりよく分からなかった)が別にあった。

・カラーテレビは、おそらく小学校低学年にはあった気がする(とても曖昧)と言っていた。よく昔の映画やテレビで見る、チャンネルをくるくる回すものであった。
 

→「いちご」さんの感想:今まで母に昔のことを聞く機会が無かったので、とても新鮮だった。また、学校の歴史の勉強で習った三種の神器というものは、どこか遠い昔の事という認識だったので、母が生きた時代がまさにその時代だったことに少し驚いた。

 私自身、小学校の授業で洗濯板で実際に洗濯するという体験をしたことがあった。その時はまだ小学生で力もなかったからか、すごく大変な仕事だった のだという印象が強かった。手先は痛くなるし、翌日腕も筋肉痛になり、何より汚れが落ちなかった覚えがある。(体験の前に自分で泥や砂で汚れを付けてき て、それを使って体験した。)

 祖母の家の物置には古い洗濯機(洗濯するドラムと脱水するドラムが分かれているもの)が置いてあり、小さい頃はそれに入ったり、飼って いた猫を入れたりして遊んでいたが(今考えるとものすごく危険)、母が言う電気洗濯機はその型のひとつ前のものなどと思う。そう考えると、洗濯機の技術は ここ数十年で大きく変わり、洗濯板の時代から比べると天国のような状況なのだと思った。母だけでなく祖母に話を聞けたらもっと時代の変化が分かっただろう と思った。

<テレビの力>
祖母/2016年度後期・日本政治論「ぎょうざ」さん
家族でテレビに興味があったため、洗濯機を我慢して最初にテレビを購入し、その次に洗濯機、最後に冷蔵庫を購入したそうです。周 囲の家では、洗濯機を最初に購入する場合が多かったそうです。冷蔵庫は井戸で冷やしていたそうなので、私が想像したよりも早急な必要性はなかったようで す。なお、井戸は、その後に農家から都市部に出たので、いま祖母が住む家にはないです。
1960年当時は34歳頃、祖父の妹(大叔母)2011年度前期〈多民族共生〉「あんこ。」さん)
<テレビ> 実家がそば屋をやっていたことと、祖父が新しい物好きだったことから、テレビは郡内では我が家が最初だった。郡の ローカル新聞に記事が載って、その日からたくさんの人が我が家に押しかけた。仕事帰りの人や近所の子どもが家の前の通りにまで並んで見に来ていた。見てい たのは力道山の試合で、観戦するというより、子どもが技を真似したり、大人も喧嘩を始めたりで、激しいお祭りのようだった。

<洗濯機> 洗濯機が来る前は、大きな木のたらいに洗濯板を斜めにいれて、そこで洗っていた。水道がある家は水道から水を出すけど、無い場合は川とか井戸とかから水を手に入れた。洗濯物は量があるし、水は冷たいし、力は入るはでかなりの重労働だった。

 当時はテレビ、洗濯機、冷蔵庫を持っていることがステータスのようなところがあった。テレビにはアンテナがあって、持っていることが外から分かるけれど、他の二つは分からないので、洗濯機や冷蔵庫にもアンテナが付いていればいいのにとよく言っていた。

当時30歳前後、宮城県利府町在住、消防関連の職/私の祖父(2010年度後期「ニュートン」さん)
当時のことで特に記憶があるのは、やはり「三種の神器」のことのようだった。生活が変わるくらい便利で、特にテレビを買ったばかりの頃は近所の人が多く集まって見ていたようだ。しかし国民所得倍増計画などの政治的な話はほとんど出ず、記憶にほとんど無いようだった。
→「ニュートン」さんの感想〕やはり「三種の神器」は人々の暮らしを大きく変えたのだと改めて実感した。

 祖父は仕事柄としても世間のことに注目してそうだなと私は考えていたが、意外にも政治などには関心がなかったようだ。当時の人としては、経済が成長していくことを実感しても、その背景などには注目していなかったことが分かった。

・1969年に35歳前後 当時は寒河江で働いていた祖父/2020年度後期「ISM」さん
 (六〇年安保について聞いた際に高度経済成長当時のことを聞いたところ)
 祖父は当時のテレビ事情について語ってくれた。祖父にとってカラーテレビの普及は印象に強かったようだ。今までほとんど興味のなかったニュースなどもたまに見るようになっていき、生活のなかでのテレビの重要度が高くなっていったらしい。
 また、1969年に放送開始された時代劇『水戸黄門』は毎週欠かさず見るほどに好きだったらしい。祖父は今でも時間があれば『水戸黄門』の夕方の再放送を見るのが習慣になっていて、この作品が祖父に与えた影響は相当大きなものだったといえる。
1964年「東京五輪」当時は24歳の祖母(山形県西村山郡西川町で農家)/2015年度後期・日本政治論「フラットウォーター」さん
・集団就職をおこなったのは祖母よりもさらに前の世代で多かったが、中学卒業後に東京へ行った同級生も少なからず居た。1964 年の東京五輪は当時テレビ中継で見ており、県内出身の選手もいたことから井戸端会議の話題の中心であった。白黒テレビのは昭和30年代後半の「柏鵬時代」 の大相撲見たさに曾祖父が大枚をはたいて購入し、居間で見入っていたという。
→「フラットウォーター」さんの感想:両親の若い頃の話はよく耳にしてきたが、祖父母に昔の話を聞くのは小学校の課題以来で あった。三種の神器の内、最も歓迎されたのが白黒テレビであったことから、当時の情報伝達手段や娯楽の少なさを垣間見た。今と比べると暮らしに余裕がな かったが、近所の人と助け合いながらモノやお金がなくとも楽しく暮らしていたと聞き、若干の羨ましさを覚えると共に豊かさの概念について考える契機となっ た。
・当時22歳でバスガイドをしていた祖母、鶴岡市在住(2014年度後期・日本政治論「梨好き」さん)
・集団就職について:中学校の時はクラスの半分の人が集団就職で、弟も東京に集団就職したそうです。そのため、東京に行く汽車が停まっている駅まで行き、見送りを
したそうです。

・東京五輪について:聖火ランナーが一番印象的であり、開会式を観た場所の職場の休憩室では、そこにいた全員が感激し、拍手喝采だったそうです。因みに、東京ではその当時観光客の外人が増えた印象であったらしいが、東北地方では、観る方が珍しかったそうです。

・三種の神器に中で最初に買ったのは白黒テレビで、その理由として、他の家にあるのをみると羨ましく感じたそうで、とにかく欲しかったそう です。また、最後に買ったのは冷蔵庫で、その理由が高価であったことと、当時は井戸がまだまだ存在していた時代だったことから、野菜などは井戸水で冷やし ており、また物売りが頻繁に来る時代だったことから、使う分だけを買い、調理していたため、冷蔵庫を使う必要がなかったそうです。
 

→「梨好き」さんの感想〕三つの事柄について聞いた感想として、意外と講義の中でも出てきたような事柄が起きており、改 めて話を聞くことでその時代の再認識をすることが出来たが、最後の三種の神器については、家庭の仕事を効率よくすることが出来る電気冷蔵庫や、電気洗濯機 はあまり重要視されず、白黒テレビという娯楽のための電化製品が重要視され、その上一番家庭で喜ばれていた、つまり当時の人達は便利さよりも自分たちの 「楽しい」という感情を重視する傾向であったことが、私が考えていた予想と異なっていたため少し驚いた。
1964年当時は12歳で小学6年生 私の父親福島県安達郡安達町(現在の二本松市)在住/2010年度後期「いちごけーき」さん〕
 東京オリンピックの思い出を尋ねたところ、学校ではカラーテレビを導入し、授業はすべてテレビ観戦だったそうだ。担任の先生もノリノリで見せていたとのこと。

 オリンピックの効果は開催期間後も続き、授業の一環で「東京オリンピック」という映画を隣町の小学校まで鑑賞に行った。また、福島県出身者である マラソンの円谷幸吉選手の銅メダル獲得を記念し、二本松市の霞が城と岳温泉にてマラソン大会が開催された。これに応援に行った記憶があるそうだ。

→「いちごけーき」さんの感想〕戦後の焼け野原からの見事な復活の象徴ともいえる「東京オリンピック」。口数が決して多くない父親なのだが、当時を懐かしみながら嬉しそうに話してくれた。当時少年だった父親には、華やかな活力ある世界に映っていたに違いない。

 この当時、学校にカラーテレビが導入されていたことには私も驚きを隠せなかった。当然のごとく白黒テレビだと思っていたからだ。父親の学年は3クラスあったそうなので、クラスに1台あったとすると、カラーテレビの総額はどれくらいだったのだろう。

当時10歳〜 富山県朝日町から京都へ 友人の父/2010年度後期日本政治論「ネコ」さん
 東京オリンピックでは、開会式の日、学校が午前中で終わったので、友達と野球をしていた。

 「三種の神器」については、洗濯機かテレビかどちらかが先に来た。当時は番組が少なかった。土曜の昼に放映されていた喜劇を見るために、学校から 走って帰ってきた。冷蔵庫は近くに八百屋、肉屋があったから、かなり遅かった。(友人の家は、商店街にあり、現在も呉服屋をしています。)

 大阪万博については、京都の大学に通っていたから、二回行った。アフリカ館などすぐ入れるところを回った。万博で初めてジェットコースターに乗った。

→「ネコ」さんの感想〕とても懐かしそうに話してくれて、私も当時を想像しながら話を聞いた。単純に楽しかった。当時は今よりも不便だったろうが、新しいモノが出たり、新しい経験をするということが多くて、わくわくすることが多かったのだろうと思った。
<モーターリゼーション>
・1960年当時は24歳だった父方の祖母、天童市在住で専業主婦/2020年度後期・日本外交史「OAA」さん
  高度経済成長期といっても、はじめの方はかなり貧乏で苦労したらしい。亡くなった祖父は、1955年(昭和39年)ごろからバイクの販売を始め、自動車のニーズの増加に伴い徐々に自動車の販売にシフトした。はじめは農家に向けたトラックが良く売れたそうだ。
 東芝クレジットといったクレジットカードのシステムが誕生したことでお金の取引が楽になり、現金を用意する必要がなくなったことで買う側が車をより買いやすくなったという話を伺った。〔※松本注:買い物全般に使えるクレジットカードのひとつ前の「月賦(げっぷ)」というものでしょう。〕 1964年の東京オリンピック後から景気が良くなったと実感したそうだ。
→ 聞き取りをおこなってみての「OAA」さんの感想:祖母から昔の話を聞くことが中々なかったので、昔のリアルな生活の様子を聞くとてもいい機会になった。 六十年安保を詳しく知らない祖母からは六十年安保の話より高度経済成長期の話を伺った。戦前の幼少期から祖父の商売が軌道に乗るまで、本当に貧しく大変な 時期を過ごしたらしく、孫である私が過ごす現代の生活とのギャップに驚いた。
・.1964年当時は21歳で、山形市に住んで会社員をしていた祖母(2021年度後期・日本政治論「TKY」さん)
 集団就職では祖母の同級生も東京に多く行った。東京オリンピックは店のテレビで見た。バレーとマラソン以外はほとんど記憶にないらしい。テレビは持っていなかったし、時間が無かったそうだ。祖母は新・三種の神器は持っていなかった。祖母の会社の人でも自家用車を持っている人は数人しかいなかった。
→ 聞き取りをしてみての「TKY」さんの感想:「新三種の神器」についてはみんなが持っている物だという認識があったが実際は違っていて驚いた。特に自家用車というのは祖母の数百人規模の会社でも持っている人が数人程度というのは相当高価な物だったのだなあという感じが伝わってきた。しかしそう考えると民間のバスなどの公共交通機関が発達していたのかなあと感じた。ここは山交グループが関わっているのかなあとも思った。

 ここでついでに「服部天皇」とも言われた服部敬雄(よしお)氏についての聞き取りを書いていこうと思う。祖父の家系が服部邸近くの三島神社の管理人をしていたらしいので服部敬雄氏と御近所だったらしい。同じ町内会だったらしいが祖父もよく覚えていないらしい。前の話と関連させて思うのが当時の山形では山交グループのおかげで自動車を持っていなくても生活できるほどだったのかなとも感じた。